聖火リレー

世界リレー途中で消える

居場所をくらまして
別のコースを走った
といのもすごいが、
途中で火が消えて、
再度灯した図もあり、
おもしろかった。

炎は、
一回消えたものか、
どこか途中でライターで灯しなおしたものか、
ギリシャからずった燃え続けているものか、
区別がつかない。
どうしたって、区別がつかない。

区別がつかないのだから、
リレーをして運ぶことの意義は実はまったくない。

ましてや今回、
このような騒ぎである。

ギリシャ時代よりずっと昔、
火を手にすることは大変な魔術または偶然で、
火種を途切れさせることは重大な過失であっただろう。

火は神聖で
絶やしてはいけないものだっただろうと思う

そのうち火を作る方法が広まっただろう

現代では、聖火は、ギリシャからのリレーの必然性のないのもであり、
途中で消えたとしてもライターでつければいいだけで、
過失は原理的に証明できない。

火は精神にたとえられ、ギリシャ精神は火としてリレーされた。
その発想は、理解できる。

ならば、時代に合わせて、あたらしいギリシャ精神のリレーがあってもいい。

ギリシャに民主制があっても、それは奴隷を基礎としたものだったし、
衆愚政治と同じだったことは現代と変わらない
アテネは必然的に最期の輝きの中に消えたように
すべての人類は消えるだろう

そして火が消えてもライターでつければ同じであるように
DNAの配列情報と脳の神経細胞の結合情報が残っていれば、
「その人」が再生できるようになるだろう。
そんなことが夢ではなく語ることができるようになった。

大切なのは物質ではなく情報であった。
火は炭素という物質の酸化燃焼であるが、
生命は、情報が外部世界と出会い、改変され、セレクトされるプロセスである。

ギリシャ精神としての比喩を
バトンタッチして運ぶのではなく、
ギリシャ精神の構造そのものを
現代的な方法で世界に送信したらいいだろう。

そう考えると、ギリシャ精神の本質はしっかりと全世界に
伝えられているのだ。

世界の主人である人びとと、世界の奴隷である人びととの
対立は現代もある。
現代も、奴隷は排除された上で、
オリンピックは成立している。

あるいは、奴隷制に類した制度が温存されているから、
オリンピックという場所で階級を上がりたいと願う理由が温存されている。
苦しい練習に耐える理由は一部はそこにある。

あるいは、なぜギリシャから聖火をリレーするか、
まったく理解しない人々がいて、
ギリシャ精神とは何か、分かるはずもなく、
途中で消えた火をライターでつけても平気な人たちがいて、
そんな人たちがわいわいがやがやと聖火をリレーし
効果的にマスコミ宣伝しようとして妨害している図があり、
これもまた何とギリシャ的な図なのだろうかと思う。
すべてはギリシャ的である。