最近また死刑判決が出ているし、
死刑執行も例の法務大臣によって大量に執行されている。
死刑判決は誰も書きたくないはずで、
裁判官も官僚化しているということだろう。
気の毒なことだ。
マスコミには遺族感情を重視し、むしろ遺恨をあおる風潮があり、
また一方でマスコミには、日本だけなぜ死刑があるのかといった批判的な視点もあり、
裁判所も困っているのではないかと思う。
世の中で死刑を宣告できるのは裁判官だけで、
執行命令が出せるのは法務大臣だけである。
あとは闇の人間がヒットマンに指令を出すというのも、
劇画の世界では存在する。
死刑を宣告された後の刑務所の暮しはかなりの精神的不安が付きまとうもので、
刑務所専属の精神科医が面倒を見る。
これも大変な仕事だ。
死刑判決とはかなり違うが、人の命の調整を預かっているのが、医師である。
患者さんには一秒でも長く生きていて欲しいし、
治療の可能性は捨てたくないし、
生きているあいだの生活の質は高く保って欲しいし、
一方で、家族の疲労や経済的な負担も考えなければいけないし、
他に入院待ちしている重篤な患者さんがいることも考えなければいけないし、
最近の、延命治療は遠慮したいとか、安楽死の希望とか、尊厳死の希望とか、
そんなことも考慮に入れて、
モルヒネの量とか人工呼吸器の優先順位とか考えつつ、どの程度の濃厚治療がいいのか、
考えなければならない立場にある。
死刑執行ではないが、生から死に着地するために、
どのような曲線を描いて飛行するか、
デザインする立場にあるといえる。
裁判官ほどではないが、なかなか難しい。
精神科の精神保健指定医は、
人権を一部制限して、精神科病院に強制的に入院させる権限を有している。
隔離することができるのである。
隔離することにより、患者さんを保護することができるし、
社会を保護することができる。
これをやると看護側から反発が出ることがあり、看護とはいい関係を保つ必要がある。
いったいこのようなことを私立病院がやっていいのかという問題はあり、
公立の精神科病院に任せたいという話もある。
自分の夫を殺害して、切り刻んで捨てたという場合、
万一、精神障害であったとして、
犯行前にその異常をとらえて、治療に乗せることができたかどうかを考える。
原理的にそれができないなら、
殺害は抑止しようがなく、
社会としては防衛策を持たないことになる。
事後的に精神障害であったと確認したとして、
殺害された人は浮かばれない。
話は元に戻るが、
お医者さんは日々の仕事の中で、うっすらと、微妙に、死の判決を下し、死を執行しているのではないかと思う。
重い仕事である。
予算も時間も無限にあるならば、後悔のない治療ができる。
しかし実際は、医療費削減を言われ続けている。
生の時間を縮めることなく、
生活の質を悪化させることなく、
しかしもっと安上がりに、
治療ができるものか、
そんな魔法のようなことができるのか。
結果として、次々に病院が閉鎖している。
予算を組むと言うことは、
実は死刑の宣告だったのだと知る。
だから、世の中で死刑を宣告できるのは、裁判官の他に、
予算決定者である。