1.
夢の中で人は問題を解決する。
昔の人が出てきたとして、
脳は、その人を記憶の中枢のどこかに、納得して格納するにふさわしい場所を探す。
悔しいという感情標識をつけて、その場所にしまうのか。
あるいは悲しいなのか楽しいなのか、
もっと細かく、秘めた嫉妬なのか、無感動な憎悪なのか、
いろいろな標識が可能である。
標識を確定する作業が多分夢なのだと思う。
PTSDのあとの悪夢の場合など、明らかな恐怖体験の場合、
なかなか記憶の収納の引き出しに収まらない。
大きすぎるし、多面すぎる。
細かく砕いて、ひとつひとつに後悔とか悲哀とか恐怖とか畏怖とか標識をつけて、
格納する。
それには時間がかかる。
覚醒した状態でその作業が進行すればよいのだが、
それはなかなか難しい。
2.
夢の中で人は出来事や人に対して、
多様な意義付けを試みる。
別の解釈はできないか試みる。
あの人のきらいは結局忘れられないの意味だろうとか、
あの人が恋愛感情がないとわたしに言うのは結局、
危険な恋愛に身を投じることはしたくないということなのだろうとか
失恋についてもいろいろに解釈できる。
多様な解釈は
世界の意味を拡張することであり、
深い知恵である。
したがって、夢から知恵を汲み取ることが
古来行なわれている。
文学そのものと言ってもいい部分である。
夢にあの人が出てきたのは私を思っているからだと解釈する。
平板な解釈は、わたしがあの人を好きだから、私が夢に見る、である。
しかし一歩深い解釈は、あの人が私を好きだから、私があの人を夢に見るのである。
それは何という鮮やかな解釈だろうかと思う。
わたしはあの人の夢を見なくなったと感慨を込めて思うとき、
すべての心の整理はついているのであり、
私の側の興味が失せたに違いないのであるが、
それはあの人は私をもう想っていないのだと解釈することで、
すべての決着はつくのである。
自分が想えば現われ、
想わなくなれば消える、という単純なモデルではない。
想う主体は相手に残し、それを自分が受け入れるというのであるから、
なかなかいいモデルだと思う。
夢を見るなら相手が自分を想っているのだと
解釈できるわけで、
秘めた恋はなおさらいいものだ。