夜になって風が涼しい。
ありがたいものだ。
そしてあの人は
もうこのありがたさを体験することはない。
この世界を駆け抜けたのだ。
誰よりも速く。
彼には世界が見えすぎていたが、
これは自分には興味がないことと決めるのもまた速かった。
それゆえに集中力もあった。
晩年に時間を作って、
モーツァルトを研究する予定だった。
音楽は要するに音の並べ方なのだから、
並べ方の具体形の中に、
モーツァルト的なものが宿っているはずである。
いくつかのパターンは抽出できるから、
それを手かがりにして、
分析し総合しようと言うのだった。
その程度こととなら
彼の知力を持ってすれば、
出来るにちがいないことだった。
モーツァルトを書かなくていい。
解剖するだけでいい。
人体を作らなくていい。
解剖するだけでいいのと同じだろう。