シェイクスピアの人間談義 小田島 雄志(演劇評論家)
はじめに
小田島でございます。先ほど大変有難いご紹介をいただきましたが、私自身、単に芝居好きのミーハー的観客です。こんなに大勢の偉い方々が私の雑談のような話のために一時間も無駄にするのは、日本の文化にとって損失とは思いますが、お許し願いたいと思います。
「シェイクスピアの人間談義」という題でお話いたします。ただ、シェイクスピアは本当にいたのかという話になると三時間もかかりますので、いたということにいたします。私とシェイクスピアとのつきあいも、もう五十年以上にもなります。ではそこから何を学んだのかと言われれば、シェイクスピアが別に何か教えてくれるわけでなく、こちらが求めれば、そこに何かあるという感じです。
その何かとは人間とはどういう存在かということです。彼は、愛したり、憎んだり、あるいは迷ったり、決断したりする様々な人間の姿を書いたと言えます。そしてこちらも、人間とはこういうものだなということを発見ないし再発見できる喜び、それがシェイクスピアに私が今までつきあってきた意味だろうと思います。
テーマを一つに絞りまして、シェイクスピアが人間、あるいは人生というものをどう見ているかを、私なりに好きなせりふをいくつか挙げてお話しようと思います。答えを先に申し上げますと、シェイクスピアの人間や人生に対する見方は、一歩引いて見る目と言うか、何かにとらわれている目、つまり当事者の目ではなくて、第三者の目と言ってもいいと思います。
身近な例ですが、例えば私も雨の日など、道を歩いていて、向こうから車が来てバシャッと泥水をぶっ掛けられると、畜生、車ってなんて横暴だと思います。ところが、こちらが車に乗って走っている場合、おばあさんがよたよた歩いていたりすると、邪魔だから早くどけよと言いたくなる。これは当事者の目で見ているわけですね。そういう姿を一歩引いて、第三者の目で見たら、どっちもどっちじゃないかと思えると言えます。
日本語には岡目八目といういい言葉があります。これはやはり、縁台将棋を指していて、自分より絶対下手だと思ったやつに「それは違うでしょう」みたいなことを言われると、しゃくにさわるけれども、指している自分より、覗いている人のほうが、実際、ものがよく見えているということはあります。
つまりシェイクスピアというのは、一歩引いた第三者の自由な目でものを見る達人と言っていいかもしれません。私は、以前『道化の目』(白水社)というエッセイ集を出しました。シェイクスピアに出てくる道化はとらわれないで物を見ているので、そういう目を僕も持ちたいと思って出した雑文集ですが、それを読んだ偉い先輩に「題名だけはいいね」と言われましたが確かに自分でもそう思います。
今日は、シェイクスピアがいかにそういうことの達人であり、人間というものをよく見ているなと思える例を七つほど、せりふの中からご紹介しようと思います。
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「岡目八目」とは実によく言ったものだ。
「当事者の目」とは「何かにとらわれている目」だという。
なるほどそうだ。
自分の背中は見えないし、痒くても掻けない。
人間はそんなものなのだ。