どんな荒れ狂う嵐の日にも時はたつのだ。小田島 雄志

Ⅰ どんな荒れ狂う嵐の日にも時はたつのだ。
           (マクベス 一幕三場147行)
   Time and the hour runs through the roughest day.

 これは『マクベス』という芝居のせりふなので、皆さんよくご存じでしょう。内容を簡単に申し上げると、11世紀のスコットランドに、実際にいた王様の話です。彼のいとこダンカンはスコットランドの国王で、彼自身は中世封建時代の貴族であり、グラームズの領主でした。このお城は現エリザベス女王の母君の居城だった所でもあり、素晴らしく大きな、きれいなお城です。
 マクベスが、スコットランドに対する反乱軍を、バンクォーという僚友とともに制圧して引き上げてくる途中、三人の魔女に出会います。最初の魔女が、「万歳、マクベス、グラームズの領主」と言い、第二の魔女は、「万歳、マクベス、コーダーの領主」と言い、第三の魔女は「万歳、マクベス、将来の国王」と言います。マクベスは、自分は確かにグラームズの領主、だのにコーダーの領主とはどういうことだ、彼はまだ生きている、将来の国王とはどういうことか、と聞いても、魔女は答えません。また、バンクォーも俺にも何か言えと言うと、魔女たちは、「マクベスほど偉大ではないが、ずっと偉大な方」「マクベスほど幸せではないが、ずっと幸せな方」と。また自分が国王になるとは言わないけれども、「代々の国王を生み出す方」という予言をして、消えてしまいます。不思議なことがあるものだなと言っているところに、ダンカン王の使者がやってきて、マクベスに向かって「反乱軍をやっつけた、その功績によりコーダーの領主に任ずる」と伝えるわけです。
 第二の魔女の予言が当たったのです。とすれば、第三の魔女の言う将来の国王というのも、当たるのではないかと彼は思います。そして、ダンカンとはいとこ同士ということもあり、彼の中に今まで眠っていた国王への野心がめらめらと燃え上がるのです。
 マクベスの居城があるインバネスはスコットランドの最北端にあります。その南部にあるネス湖は例のネッシーという怪獣で有名です。僕も三十分くらいがんばったけれども、出てくれませんでした。そこからネス川が流れて、いちばん北で海に入る所、そこがインバネスです。インバというのは口という意味でその河口にあたるのが、インバネスという町です。長いゆったりしたケープ付きコートをインバネスといいますが、私のおやじはそれが好きでよく着ていましたので、ああ、ここがインバネスかと思いました。この町を流れる大きなネス川にこれまた大きな橋がかかっていて、ネスブリッジと書いてあり、橋のたもとに喫茶店があって、ネスカフェとあった。本当です。写真を撮っておけばよかった。コーヒーのネスカフェと、スペリングがちょっと違います。NESS、Sがひとつ多いです。
 そのインバネスのマクベスの居城にダンカンが来ることになって、結局マクベスはダンカンが寝ていることろを殺すわけです。その後、予言通り自分は国王になります。そうなると、バンクォーもあの魔女たちの予言のように代々の国王を生み出すということは、自分が手を汚してせっかく手に入れた王座が、あいつの子孫にいくことになってしまう。それでは面白くないというので、今度は殺し屋を放って、バンクォーとその息子フリーアンスを殺させようとします。しかし殺し屋は、バンクォーは殺したけれども、息子の方を逃してしまい、そのうちに、今度は殺したダンカン王の長男でイングランドに逃げていたマルカムがイングランド王の助けを借りて攻めてきて、結局、マクベスは死んで終わるというのが、この芝居です。
 じゃあバンクォーへの予言は当たらなかったのかというと、当時の観客はみんな知っていたのですが、芝居での予言というのは必ず当たることになっています。作家は知って書いていますから、当たるのです。実話ではバンクォーの息子は結局アイルランドに逃げて、そこの王女と結婚し、その子孫がスコットランドに戻ってきて、魔女の予言通り、代々の国王になります。
 実際、1603年にエリザベス女王が亡くなります。エリザベス女王は、私は国家と結婚したとか、国民がわが子であるとか、格好いいことを言って、本当の子どもを生まなかったので、ロイヤル・ブラッドの継承者がいませんでした。そこで、スコットランドにいたジェームズ六世という王を連れてきて、イングランドの次の国王にします。ジェームズという名前の王は、イングランドで初めてだったので、一世と名前を変えます。
 当時演劇活動は、貴族以上のパトロンがついていないと許されませんでした。シェイクスピアのいた劇団は、宮内大臣がパトロンでしたので、ロード・チェンバレンズ・メン、宮内大臣一座と言われていました。ジェームズ一世が即位してから、国王がパトロンになったので、キングズ・メン、国王一座と呼ばれます。
 これが1603年のことです。『マクベス』を書いたのが1606年と思われますのでシェイクスピアからすれば、国王でもあり、劇団のパトロンでもある人のご先祖が、系図上はバンクォーです。それで、結局シェイクスピアはこのバンクォーの悪口が書けずに、彼を立派な武将にした。だから、バンクォーを殺させたマクベスを悪党にして、その悪党に殺されたダンカンという王様をまた立派な王様にしたのです。
 シェイクスピアが種本に使用した歴史物語の本によると、ダンカンというのが本当は王位簒奪者で、マクベスが正統な王位継承者だったのを、横取りしたというのが事実のようです。マクベスはダンカンを殺す時に、バンクォーの手を借りましたが、自分が王になったら、彼も王位への野心を持っているとわかったので、やはり殺してしまいました。
 最後の一年、晩年の一年くらい、ちょっとおかしくなったところがあるようですが、それまでの十年ほどマクベスはいい王様でした。しかし、シェイクスピアは当時の国王であり、パトロンである、ジェームズ一世によいしょするというかご機嫌をとるために、ちゃんとバンクォーを立派にし、殺したマクベスを悪党にしています。
 シェイクスピア三十七本の芝居のうち、悪党を主人公にしたのは、二つしかありません。『リチャード三世』と『マクベス』です。そういう歴史物語があったのを、シェイクスピアなりに改変し、善悪の基準をひっくり返して、この『マクベス』を書いたということです。
 この「どんな荒れ狂う嵐の日にも時はたつのだ」というのはどの場面で言われるせりふかというと、マクベスが魔女たちの予言を受けた直後、ダンカン王の使者が来て、自分がコーダーの領主になっ
たと聞いて、だったら自分は将来国王になるかもしれない。そのためには、今いるダンカンを殺さなくちゃいけない。王殺しというのは、非常に重い罪ですが、マクベス自身、イマジネーションの強い男なので、その恐ろしい王殺しの場面を想像してしまうのです。そして、その恐ろしさに、心臓が肋骨を打つという表現が出てきます。胸がドキンとすることを心臓が肋骨を打つという非常に生々しい表現で表わしています。来るものはどうせ来る。ええい、どうにでもなれといって、言うのが実はこのせりふです。「どんな荒れ狂う嵐の日にも時はたつのだ」とはつまり、王殺しなんていう恐ろしいことをやっても、結局時は流れていく、ええい、やってしまおうというコンテクストで言われるせりふです。
 このせりふは、現在というものにとらわれていては、物が見えない。例えば、景気なども、不景気とか好景気とか言われていますが、やはり五十年も百年も続くものではなく、一歩引いて長い目で見れば、景気というものにはかならず波があるように、どんな荒れ狂う嵐の日も、結局嵐は去って、青空がよみがえってくるという、これはシェイクスピアがいろんなところで繰り返す、ひとつの人生観と言えます。
 ついでに申しますと、先ほど話にあったように、殺されたダンカンの長男がイングランドに入り、一万の兵を借りて攻め上ってきます。そして、いよいよ打倒マクベスの直前に言うせりふが、今まで要するにわが国は、マクベスという暴君の下にあって夜の闇に閉ざされていた、しかし、「どんなに長い夜も必ず明けるのだ」という同じようなせりふを言います。芝居の冒頭と最後近くに、敵、味方に分かれて争う者が、意図的にかどうかわからないけれど同じようなせりふを言うということは、シェイクスピアが常に、現在にとらわれず、一歩引いて、長い目で物を見ろということを言っているのです。
 ひんしゅくを買いそうですが、僕は麻雀が好きで、麻雀をやっていらっしゃる方はご存知でしょうが、三面待ち、絶対上がれると思ってリーチをかけたら、親の満貫のカンチャンに振り込むとか、おわかりにならない方はそれで結構ですが、要するについていないなということがあります。その時に、ついていないなと思ったらそのまま底なし沼で、どこまで落ちるかわからない。ではどうすればいいか。胸の中で、「どんな荒れ狂う嵐の日にも時はたつのだ」これを三度繰り返すと、不思議なことにつきはよみがえってきます。シェイクスピアを知っていると、いいこともあります。

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見事だ。

予言は現実を引き寄せる。
予言がなければ事件も起きないはずなのだ。
魔女とは何か、何者か。

現実には、悪い予言を聞くと、それに引きずられて、悪いことが実現することが多いように思う。
人間の弱さだろう。

逆にそれを利用して、いい予言をくり返しいい、夫や子供を頑張らせる女性もいる。
古典的な手法である。

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歴史物語があったのを、シェイクスピアなりに改変し、善悪の基準をひっくり返して
というのは
樅の木は残った 山本周五郎
がまねをしている
痺れるもんだ

歳を取るともっと痺れるから
老人になったら再読してください

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その恐ろしさに、心臓が肋骨を打つという表現が出てきます。胸がドキンとすることを心臓が肋骨を打つという非常に生々しい表現で表わしています。

これはパニック発作のときの表現に使える。

「心臓が肋骨を打つ」
これをマクベスですねと言いあてる人がいたら、一杯ご馳走したい。

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「現在というものにとらわれていては、物が見えない。例えば、景気なども、不景気とか好景気とか言われていますが、やはり五十年も百年も続くものではなく、一歩引いて長い目で見れば、景気というものにはかならず波があるように、どんな荒れ狂う嵐の日も、結局嵐は去って、青空がよみがえってくるという、これはシェイクスピアがいろんなところで繰り返す、ひとつの人生観と言えます。」

そうだなあ。「嵐の日にも時はたつ」。明日まで待ってみよう。一週間だけ待ってみよう。
現実にどうにもできない問題でも、待っていれば、問題が消えてしまうかもしれない。

さらに、ダンカンの長男がマクベスを殺す前に言う。
「どんなに長い夜も必ず明けるのだ」

これがドラマと言うものですね。

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小田島先生は、
胸の中で、「どんな荒れ狂う嵐の日にも時はたつのだ」これを三度繰り返すと、不思議なことにつきはよみがえってきます。シェイクスピアを知っていると、いいこともあります。

と言うために麻雀を例に引いています。
いまどきの人は麻雀をしなくなりました。

でも、あま、わかります。
つらいとき
「どんな荒れ狂う嵐の日にも時はたつのだ」
これを三回繰り返しましょう。