人に言われて
ワン・リーホンのDVDを見る。
2006年の時点で着メロナンバーワンになったとかで
しかし
どんなメロディーなのか
私の耳にはくっきり伝わってこない。
年寄りになるとは悲しいものだ。
メロディーとかリズムとかに対する感性も
昔のままで変更がきかないらしい。
これも一度限りの学習らしい。
ビートルズも井上陽水もいいと思えるのだが。
字幕で歌詞の翻訳が流れている。
このままだとしたらとても退屈な歌詞だ。
いろいろと考えた。
あまりにもまともに好きだとか愛しているとか
君が愛してくれれば僕は幸せだとか
そんな意味の事を繰り返している
人間として
異性が好きになって胸が高鳴るとか
大切な人が死んで涙が出るとか
失恋して食事ものどを通らないとか
当然の感情で
いろいろと説明するまでもない
むしろ説明しない方が聞く人はそれぞれの経験をだぶらせて感じてくれる
そんな作戦で好きだということを素直に歌っているので
心が枯れている人には大変退屈なのだ
これは私が年よりだからで
若い人にとってはうっとりするキャッチーなフレーズに思えるのだろう
中国大陸にも
日本にも
昔から詩歌の蓄えはある
その中でこんなにもストレートに好きだよと歌っているものは多くはない
多分、歌の始まりは、好きだよ、今度逢ってねという繰り返しだっただろうと思う
そこから暗号みたいにして隠喩が入り込み
意味が複雑になっていったのだろう
あじさいが見たいねと言えば
鎌倉でまた泊まろうねという意味になるのだろう
現在に伝わるものとしてそんなストレートな感情の詩歌は少ないと思う
編纂の時に誰かが指名されて
その人はこれが後世まで残るのかと思うと
あまりに凡庸な詩歌は却下したものだろう
そのかわりそのようなストレートな感情は
その時代時代の衣装をまとって
繰り返し歌われてきたものだろう
そのような歴史から言えば
この人のような凡庸だがストレートで
伝わり易い歌詞というものはいつの時代でも普遍的な価値があり
だからこそ時代と共に流れ去るのだろう
アメリカ時代にはアメリカ的になり
清的な時代には清的になったものだろう
そのような
「器に伴って変わる」表現とは違うものが
編纂する人にとっては大事だったのだろうと思う
そして残されたのが現代に伝わる詩集なのだろう
凡庸な歌は歌自体に意味があるのではなく
歌の向こうにある恋愛そのものに意味があるのだ
だから歌そのものは残らなくて当然だろう
恋愛の当事者にとっても
この人は私が欲しいのではなくて
表現の到達が欲しいのだと思えば
恋も冷めるだろう
そんなことも乗り越えて
宮廷歌人は歌を作り続ける
プロだから
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中国の詩人を眺めていると
大抵が役人としての出世コースをどこかで踏み外している
詩人に限らずたいていの人が途中で出世を諦めるものだからそれは当然のことだ
出世を諦めて悪い酒を飲むようになると
詩も変化するらしい
悪い酒にはたっぷりと不純物が含まれていて
それが脳に何かの作用をするらしい
いい酒を飲んでいるうちは分からないし
若いうちは分からない
恋愛は歌を書くことが目的ではない
身の不遇をかこつときは歌を書くことが慰めになることがある
だから恋愛の歌は忘れられる
不遇の歌は残る
王子が好きだと歌うとき
最新の媒体と結合する
それも当然であり
一番早く忘れられる
昔の王子などに用はないからである
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日本の定型詩に節はあったのかと思うことがある
定型詩だからメロディーがあればいいはずだ
君が代は短歌にメロディーをつけているのだから
たいていのどの短歌でも歌える理屈になる
宮廷での歌会のときは
新しいメロディーを披露する場所にもなったであろうと思う
雅楽の世界でそれほど印象的なロメディーはないように思っているが
どうなのだろう
たぶん私が知らないだけなのだろうと思う
平安の世にも井上陽水とマッカートニーはいたのだろうと思う
歌詞だけが残って
メロディーが残らないのもおもしろい
メロディーという認識があったら
もっと本気で正確に残そうと情熱を傾けたかもしれない
もっとあいまいな認識しかなかったのだろうと思う
字余りにも法則があり
母音があまるのはよく
子音と母音をセットで数えれば
定型のままだとの意見を聞いたことがある
それは日本語としてかな文字で書けば字余りということで
子音+母音の区切りを数える外国人風であれば
定型なわけでそのような感覚が日本の上流階級にはあったのかもしれない
またメロディーがあれば
それに乗ればいいわけで
母音を伸ばすだけなら支障はなかったのかもしれない
子音を発音するところで琴が弾かれるという仕組みだったかもしれない