活字と映像の脱臭

自分の言葉を活字にして出版するのは
古い世代にとっては
なかなかの憧れだった
特に大きな出版社などは権威だった

自分の姿がテレビで放送されたり
映画になったりするのは
これもかなり晴れがましいことだった
古い世代にとっては

新しい世代はどうなのだろう
自分でネット上にページをつくることはやさしい
画像を貼り付けることもやさしい
動画を配布することもやさしい

昔ほどの価値はないように思う

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その点でいえば、
自己愛的な表現者が追放されつつあるのかもしれない

昔の表現者は自己愛の過剰であり
それを周囲も許容していたと思う

自己愛を表出する代わりに
失うものも多かったので
賢い人は自己表現を控えていたものだ

現代では情報が洪水のように流れていて
その中にどんな情報が紛れ込んでいるか誰も特に気にとめていないようだ
どんな情報にもアクセスできるが
結局は自分の知っている範囲のサイトにしか行かないのだろう

検索でヒットする情報も大半がコピーされたページのようだ
情報は重複している

言いたいことの大半はすでに誰かが言っていることで
特に外国語が読める人にとっては
そのような事情になるだろう

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活字というものは不思議なもので
個人の臭いをかなり「脱臭」してくれる

ひどい事を言えば
どこかのページをコピーしてペーストしていても
「臭い」が違うと思われることもないだろう
そんなにも脱個性的なものになっている

むかし文章をペンで書いて手紙を書いていたときは、
手紙の文字の中に、その人の個性がくっきりと刻まれていたと思う

オレオレ詐欺で
電話でおばあちゃんをだませるというくらいだから
文章ならばなおさらだろう

したがって価値も薄いものになっていると思う