芭蕉と母性社会

松尾芭蕉の半生を綴った番組があり
見ていて吐き気がした
松平というアナウンサーが何か喋っているが
わたしは芭蕉は好きだし尊敬しているのでなおさら失望し
見なければよかったと思った
世間はそんな風に考えているのだろうか

言葉遊びを反省して、
こころを見つめたんだとか
そんな感じの言葉

*****
古池や 蛙飛びこむ 水の音

の句については

蛙には山吹が伝統で、
それを廃止した点、
蛙は鳴くもので鳴き声を話題にするのが伝統だったが、
それを廃して飛びこむ音とした点、
などが新味といわれる。

古池も目の前にはない
蛙はいない
飛び込む音ももちろんしない
ただ静寂である
そんな解説を読んだこともある

古池はあっただろう
しかし蛙の音はしなかっただろう
飛び込まないし鳴かない
そんな情景を詠んだものだろう
という説もある

いや実際に音がしたと想定してもいいだろうとも言われる

*****
私としては、この句に限らず、
俳句というものは、17文字の制約の中で、
読む側の常識が過剰に必要とされるとても非民主的な産物だと理解している。

読む側は、いろいろと解説を読んで、その上でやっと感動していいのである。
俳句を作るときにも師匠の許可が大切らしいが、
俳句を鑑賞するときも、師匠のお墨付きが必要な具合で、
こういうものは、日本が「母性社会」であることの分かりやすい現れであると思う。
現代芸術がいろいろな解説を必要とすることも同根である。

母性社会では、
法律で人と人とのけじめをつけていくというものではなく、
母親みたいに、よく分かってくれる人がいて、
相手の常識によりかかって
こちらが舌足らずな事をいっても、
隙間を大幅に補完して解釈してくれる事を期待してよい。
そんな社会なのだ。

集団の共有するイメージシステムがとても深く強固に非言語的にしみこんでいる。
だからこそ、
17文字でありがたいと思えるのだ。
そしてその常識が共有できない人にとっては、
まったくつまらない17文字になってしまう。

背景にあるイメージシステムに依存しすぎる文学。
それが俳句であり短歌である。

芭蕉の句なども、句会の全体を読む、意見や推敲のあとを丹念に読む、
旅日記のかたちで芭蕉の言語活動の全体を読む、
そのようにすることで、
母性社会的、相手のイメージシステムに依存しすぎる傾向を
少しは脱色できるのだが、
それでも、やはり、説明が足りないし、不充分である。

こんな風土の中では、
「わたしには分かる」という自称理解者、
客観的に見れば感激屋の無羞恥心屋が幅を利かせることになる。
その人たちの言葉は対象にまったく迫っていない。
芭蕉のこの句でもあの句でも、
他の人の句でも、鑑賞として成り立つような具合のものだ。

日本以外のどこかで
理想的な文学鑑賞が行なわれていると信じているわけではない。
しかし日本的な母性社会的解釈過剰は世界的に見て幼稚で未熟なものに映ると
知っておいてもいいだろうと思う。

フロイトが見たら、
とんでもなくブレエディパールな産物と評しただろう。

*****
とはいいながら、
日本語というイメージシステムの、
泣き所をポンとつつかれて、
気持ちよいこと、限りない。