「精神療法家の仕事」成田善弘-16

理論というものの背景にあるものを考えなければならないだろうかという問題

背景を考えなくてもいい理論は
完全に自立している
たとえばニュートン力学
ニュートンがどのような手順で何を考えたかを知らなくてもいい

理論 プラス 人 が必要かどうか

理論プラス人と言う世界は未熟な科学なのかどうか

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例えば、こんなときフロイトならどう考えるろうかということが有効か。

力学ならいまさらニュートンがどう考えたかなどあまり関係はない。
物理学者が、ニュートンが眺めたりんごの木はどれで、
いつ頃、どんな風に落ちて、そのときニュートンの気持ちはこうで、
などとは考えない。

フロイトの場合に神経症傾向とか父との葛藤とかよく言われて、
そんなことを念頭において読解するのだが、
そんなことが目の前の患者さんの治療に役立つのかという議論である。

心理屋は否応なく心理のことを考えるようだ。

たぶん将来、充分に洗練されて、
脳回路の話に還元されれば、
もうフロイトの人生は関係なのだと思う。

しかしその場合の脳回路をたどる作業はたぶんとてつもなく膨大な情報量になるだろう。
そこをぎゅっとまとめて近道をしているのがフロイト全集なのだというわけだ。

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完全に数式に置き換えられるというような事態でもない限り、
治療を考えている治療者も一個の脳なのであり、
その脳の使い方を達人に学ぶのは妥当なことだと思う。

脳の使い方にはいろいろあるはずで、
富士山に登る時にいろいろなルートがあっても、
最終的には頂上に到達するのと似ている。
先輩がたどった道は、後輩にとってはやはり登りやすい。
道がついているのだから。

しかし独自の道でもかまわない。
たいていの人にとって簡単なのは先輩のたどった道をガイド付きで進むことである。
仲間内で評価されやすいというおまけもある。
しかしなかには、独自の道を進むしかない人もいて、
それは能率の悪いことなのだけれど、仕方のないことだ。
その人にとっては、その道を進むしか、ない。