コップの水と性格障害

コップに水を入れると、
コップのかたちの通りに
水の分子が並ぶ。
それは当たり前のことだ。

人間を集団にすると、
必然的に、ある人は
ボケになり、
ある人は突っ込みになり、
ある人は超自我的となり、
ある人は理性を代表し、
ある人は本能を演じる。

それはまるでコップの水のようで、
人間が集団でいる限り、
相対的な立場によって、
その場所には誰かが就任する。

不都合な部分を取り除いたとして、
コップの水のどこかを取り除くようなもので、
またすぐに水の分子は隙間を充たす。

だから、個人の性格傾向というものはあるにしても、
集団の中での役割の割り当てというものはあるだろうと思うのだ

小学生までは集団の中で超自我を演じていた子供が、
集団が変わって中学生になったら、
急に本能部分を演じることになったり、
塾では依然として超自我的であったり、
携帯の中ではまた違う側面を演じたりしている。

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誰がどの立場を取るかということも複雑なプロセスがある

分かりやすい例であければ、
嫁と姑の関係などで
どちらかが強烈に感情的になれば、
あとはそのまま、関係が固定することがある。

どちらかがわがまま役で、
それをとり損ねた方が、なだめ役になる。

それは最初にどちらが切れるかで決まることだってある。

だから性格というものも、
相対的なものだ。

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人間の行動を測る物差しは一次元かではないから、
単純には測定できない。
新奇性追及と安全保障とどちらを好むかなど、
分かりやすい観点はあるが、
全部を記述できるわけではない。

時代の関心によっても
着眼が異なる。