成熟した大人

性格が成熟して大人になるということは、
相手の立場に立って物を考えて、
納得できるということだ。

精密に相手の立場に立って見て、
やはり相手の側に罪があり、非があるときには抗議すればいいが、
その抗議の仕方も、大人らしいものである必要がある。

子供の議論の代表的なものは、
議論の中身に入らず、
わたしを見下しているとか、
そもそもわたしを尊重していないとか、
態度が横柄だとか、
論理的な次元に進めない種類のものだ。

どこに旅行しようかと言っているのに、
親として子供に対して抑圧的だと抗議したとすれば、
それは議会で言えば、質疑を中断して、議長解任動議を提出しているようなもので、
まったく異質の、時と場所をわきまえるべき、特権の発動なのだ。

親は傲慢だとか表現すれば、
人間の中には数パーセントの傲慢さはあるかもしれないのだし、
どうしようもない。
それでは誰をも成長させない。

むしろ、そのような言葉を吐くことが傲慢である。
自分の議論を自分に当てはめようとしないから。

自分が他人を批判する同じものさしで、
自分を批判してみることだ。
多くの場合は謙虚になるはずだ。
そこから、大人同士の話し合いができる。

最近では
審判者のいない、
匿名の議論の空間もあり、
そこでは性格の欠損がむき出しになっている。

多くは議論にならず、
議論の空間そのものを破壊しあうようなことになっている。

半分は知的な未熟、半分は性格の欠損である。

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子供同士の未熟な喧嘩と、
大人同士の成熟した議論は、
昔はきちんと区別されていた。

人間として円満な発達を欠いた人間の
偏った意見に引きずられる傾向が現代社会には、ある。