自己表現の手段を持つことの大切さ ネット社会の中で自己表現をして自己を創る

人間のいろいろな行為を自己表現ととらえることができる
会話の中で話すのは一番普通の自己表現である。

会話になっていなくても、手紙やメールも自己表現である。
不特定多数にあてて書くサイトやプログも自己表現の一種である。
携帯に向かって、小説を書いて、それを不特定多数の人に評価してもらえるのも、
自己表現である。

また、服装や身につけるものは自己表現である。
仕事の流儀とか、パートナーの選択とか、自己表現である。
どこで買い物をするかとか、どこでカットしてもらうとか、
そんなことも自己表現の一部になってくる。

つまり極端に言えば、すべての行為は、自己表現としての側面を要しているのだ。
複数人がいるトイレに入って行って、排尿するのも、自己表現である。
人がいると排尿できないという人たちがいるのだから。
そのひとたちは、そうした自己表現の道を閉ざしていることになる。
社会不安障害(SAD)のひとつの症状である。

いろいろな経路の自己表現はあるとして、
それがどのように評価されて、自分の元に戻ってくるかは、様々である。

最近のブログでは、コメントやトラックバックがあって、
メールやグループメール、SNSと異なった様相を呈していて、
ブロクでの公開性が、よい方向にも、悪い方向にも作用することがある。

あるひとが携帯の小説を書いて、その続きを別の人が書くといった場合、
昔からあった回しノートの延長のようになっている。

惜しいのは、回覧ノートに含まれている、「オーラ」が失われて、脱色されていることだ。
気にならない人は気にならないのだろうが、
わたしはとても気になる。
だから、オーラを背負った人としか話をしない。
新聞記事ではないのだから。
また、こちらのオーラを感じてくれる人にだけ向けて書いているつもりだ。

ーーーーー
面接ではないようになって自然にブログは書かなくなった人も多い。
書くとしても、必要な連絡があるときだけに書くようになる。

ーーーーー
いずれにしても、直接人に向き合わず、言葉を綴る特性というものは、独特なものである。
それが個人向けではなく、ある程度の人数向きである場合、やはり独特である。

そしてそれは正確な意味での会話の替りにはならない。
会話の中にある弁証法的なプロセスがない。

それは自分の純粋性でもある。
それもいいことだ。
しかしそれは自分の限界でもある。
それは惜しいことだ。

異種性を取り入れる窓口を閉ざさないでいること。
たとえば信頼できる人との会話。
しかしまた、危険な窓口を閉ざすことの必要、たとえば、コメントやトラックバックの会員のみの制限。

そのようにして自分のみを幾重にも守りつつ、自己表現することはやはり人を解放するし、
輝かせるし、自己発見させるのである。

絵画でも、演劇でも、カラオケでも、店のチラシ作りでもいいのだ。
自分を表現することは、自分を解放する。