自己愛という言葉で何を意味するかもいろいろあるのだと思うが
とりあえず平明に考えるとして、
現実の自分よりも空想の自分がすばらしいと信じて感覚しているとき
自己愛性だと言っていいかと思う
反対は自己評価の低い悲観的な人で、
生きていて楽しいのは自己愛的な人だろう。
(自己評価の低い悲観的な人をうつとすれば、反対の軽躁状態くらいの人は、誇大的自己像を持つので自己愛的部分が膨らんでいるともいえる。
性格構造として自我膨張しているのが自己愛性で、
病気として一時的に自我膨張しているのが軽躁状態である。)
人間はそもそも最初から自己愛的コースに乗せられてしまうことが多い。
最近は少子化なのでますますそうである。
最初の子供が生まれたとき、
比較の対象もないので親はどうしても理想化する。
そしてそれが男の子であればなおさら王子様扱いをする。
母親にとって王子様は格別である。
お姫様もとてもいいのだが、王子様ほどではないことが多い。
子供が二人いて男と女である場合、
その辺のライバル意識も複雑微妙になる。
いずれにしても、生まれたばかりの状態では、
そのこの実際の才能も分からず、
あるのはただ親の闇雲な空想ばかりである。
そして最初に形になるのが名前である。
自分たち夫婦の子供なのだからどの程度の人間になるかは大体想像がつきそうなものなのだが、
そこを過剰に期待する。そして誰も読めないような名前をつけて祝う。
気持ちは分かるのだが、ここですでに親の自己愛性が発揮されている。
現実の自分と理想・空想の自分の違いをわきまえていない。
その後も子供に対して、理想を投影して、期待したり喜んだり失望したりして、子育ては進行する。
子供にしてみれば、初めから何も期待されず、
かえるの子はかえるだ、親と同じでせいぜいだと言われたのではつまらない。
とんびが鷹を産んだと言われて
ちやほやされていたいものだ。
しかしそのうちにそうした過剰な理想化と空想化は内在化される。
親が褒めてくれなくても、自分で自分を
自分だってなかなかすごいぞと信じていたりするのだ。
この場合、たいてい、「本気になれば」「いつか」と思っているはずで、
いつまでも本気ににならないのが自分の欠点だと認識している。
これは親も同じように考えていることが多くて、
この子は能力はあるんですけど、やる気にならないんですよ、のんびりしていて、
などと自己愛性の親の意見を聞くことも多い。
普通に体験を重ねて
周囲と現実の自分を比較していれば、
自分はどのくらいのものなのか、分かってくる。
それが現実把握というもので、大切なものである。
これが大幅にずれていると、
こんなに優秀な自分をいつまでも不遇なままにしておくのは社会が悪いなどと言って
爆発する。
世の中には上には上があり、
下には下があり、
さらにそのように一列には並べられない、
さまざまな要素があるものなのだと
認識するのが普通の現実認識である。
一つの面で優れていても、別の面では凡庸であるのが普通であって、
この点でも、理想の自己像の修正をしながら生きるものである。
優秀血統はこの点で理想的自己像にある程度の客観的理由があるので、
また周囲の扱いもそのようになるので、
現実を受け入れることが難しい場合がある。
修正作業は誰にとってもある程度つらいものだが
優秀家系に生まれて自分は優秀ではない、ほどほどでしかないと認めることはなかなかつらい。
そしてそのあともハスに構えないで素直に物事に取り組めたら、
それはかなりの人徳なのである。
現代は自己愛性理想自己を修正しにくい時代ではある。
錯覚の中に逃げ込んでいる余裕が充分にある。
言い訳をいつまでも許容する時代である。
ネット社会の中に入り込めば、
そのような弁解が山のように渦巻いている。
多分、みんなそうなのだと安心する。
安心していて、現実を勇気を持って生きる機会を逃してしまう。
もうすこしモラトリアムしていたいと思う。
現実を生きるということは
理想を捨てて空想を捨ててある種の失望を受け入れて、
その上で生きるということに他ならない。
自慢も失望も相対的なものだ。
100メートル走がクラスで一番早かったという自負もあるし、
100メートル走が県大会で3番でしかなかったという失望もある。
車のハンドルに遊びが少しだけあるように、
ほんの少しは自己愛性の成分を残し、
しかし概ねは現実の自分を客観的に名受け入れるというタイプが
一番生きやすいだろう。
きっちり現実の自己分しか期待しないというのもなにか大変な感じはする。
少しは過剰に期待して、でも、はずれても、あのまり失望しないで、と
まるで宝くじを買うときのような程度でちょうどいいだろうと思う。
外れて当たり前のものを
お金を出して買うのが人間というものである。
微妙な程度でいいから、夢を見たいのだ。
その夢までを奪ってしまうのはよくないだろうと思う。
だから適度の自己愛は生きるエンジンになるのだ。
場面にもよる。
たとえば、恋愛の場面。
きっちり現実的な自分を見つめて、
きっちり現実的に相手を見つめて、
それでどうして燃えるような恋愛が成立するだろうか。
するはずはないのだ。
しかし恋愛場面ならばいいと割り切って、
多少は自己愛的になり、燃えたりすればいいではないか。
あとで失望するとしても。
徐々に冷ましていくのが名人である。
仕事もそうで、上司は、これは君にしかできないと思うなどと
自己愛をたきつけるような事を言って、頑張らせようと操縦してくる。
それを見透かして現実的にばかり言っているのもおもしろくないのだ。
よっしゃ、やります、やらせてくださいと
多少自己愛的になってやる気をみなぎらせてみるのもいいではないか。
ある種、演じるのである。
現実の自分よりも5ミリ程度大きな理想自我像を心に抱いて、
軽く失望しながら、それでもまたくじけないで、生きて行こうではないか。