赤ん坊が生まれて泣く
周りがちやほやする
ただそれだけの中に
自己愛のすべてが含まれている
赤ん坊は泣くことで欲求をすべて満たすことができる
幻想的・魔術的・万能感である
なぜなら、赤ん坊の欲望は、乳を飲むこととおむつを替えることである。
そのすべての欲望が、泣くという一つの鍵によって実現される。
従って万能である。
周りはありとあらゆる期待を述べ立て、褒め称える。
全く現実的理由はない。単なる空想である。
赤ん坊が成長するということは、
自分の抱いた万能感を喪失し、
親が抱いた空想を裏切ることである。
甲子園大会で一校を除いてすべてが一度負けるように、
現実は敗北という成長機会を準備している。
たったこれだけの道具立てで、
万能感や尊大さ、特権意識、平凡恐怖、自己イメージの不安定さ、羞恥、怒り、優越感と同時に劣等感、自己評価の低さや見捨てられる不安
まで説明できる。
そして典型的なスプリッティングの機制も説明できる。
万能の自分とだめな自分に割れている。
自分は何もできないただの赤ん坊だという現実が、次第に、
泣けば何でも満たされという万能感や、
周囲が抱いているすばらしい未来の空想を、
浸食し、否定し、無化する。
最後には抑圧の末に忘れさせられる。
すっかり忘れてしまえば卒業である。
何も経験しなかったことになる。
敗北は成長機会である。
次の成長ステップに進むことになる。
卒業できない人たちがいて、
自己愛性格人格障害である。
卒業はできたけれど
抑圧のふたが時々緩くなって、
万能感や優越感、あるいはその逆の無能感や劣等感が吹き出すのが
自己愛型傾向である。
また、場面によっては、意識的にふたを緩めて、自己愛的に振る舞うのが適応的である場面がある。
自分が主役の劇、結婚式、発表会。
そんなとき、周囲の人たちも、限りなく賞賛し、それは乳児の頃に近いものだ。
しかしそれは一時的で可逆的であるから、
レクリエーションとして成立する。
恋愛場面もそうである。普通の二人が特別な二人になる必要がある。
相手に優越感を与え特権意識を与えるのが恋愛である。
王子様とお姫様になる。
また見捨てられる不安にさいなまれるのも恋愛である。
相手の感情の前で自分は無力でありすがるしかない、それは赤ん坊のようだ。
そうした例外的な場面はあるものの、
静かに落ち着いて、現実は現実のまま、
自分は等身大のまま、客観的に受け入れられるのが、
成長である。
なぜか最近は現実と他人を等尺度で見ない人が増えて、
自分を拡大したり縮小したり忙しい人も増えた。
自他の区別はあるものの、いったん全部を客観という大きな枠組みに入れてしまうことが必要なのに、それができていない。
自分を見る倍率と、他人を見る倍率がいつまでも違うのである。
たぶん、自分の所属している世界が、一致して、自分の大きさを定義してくれれば、
それを受け入れるだろう。
しかし自分の所属しているいくつかの集団が違う見解を提出した場合、
つまり、それぞれが、自分の大きさについて違う評価をした場合、
自己像は不安定になる。
赤ん坊の万能感が強く出るときは、強気の自己評価に頼る。
赤ん坊の無力感が強く出るときは、弱気の自己評価になる。
通常、自分がいつくかの所属する集団で、それほどに評価が異なることは考えられない。
現実の集団であれば。
しかしその一つがネット社会であったとすれば、
それは人間の能力のごく一部の評価でしかなく、
現実の評価と乖離する場合も大いにあるだろう。
そして、人間の常として、悪口を言われるところにはそれ以上は用はないのであるから、
心地よい評価だけを聞くようになる。
そのようにして現実社会の評価とネット社会の評価とは乖離するだろう。
現実社会ではいいけれどネット社会ではだめな人は、
むしろいい人に位置づけられるだろう。
現実社会でだめだけれどネット社会ではいい人は、
変わったタイプの人ということになるだろう。
いろいろなタイプの人がいるだろうが、
一つの典型は自己愛型である。
現実社会ではだめでネット社会ではいいというパターンは
赤ん坊と同じである。
現実社会では無力だけれど、赤ん坊でいるうちは万能である。
現実社会でもネット社会でも、どちらもいいまたは悪いというのは、何も問題はない。
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自己愛から脱皮しきれないのはネット社会が大いに力になっていると考えられる。
ネット社会は甲子園のような敗北をあるいは甲子園のような現実を突きつけることなく
心地よさそうにおもてなししてくれるのではないだろうか。
竜宮城である。