後鳥羽院 第二版 丸谷才一著 筑摩書房
があり、傑作とされている。
第一版は新仮名遣い、第二版は歴史的仮名遣い。
この人は英文科の出身なのに国文学の傑作を書いてしまう。
丸谷がユリシーズやポーを翻訳するのは分かる。
ついでにポーの翻訳は素人の私には傑作ではないとも感じられる。
しかしそれがポーの味わいなのだということなのだろうか。
ポーをよく知らない私には分からないことか。
新々百人一首は素人の私がだまされているだけなのかもしれないが
圧倒的な傑作だと思う。
文学部はどのような方法論になっているのだろうか。
つまりは才能の世界ということなのか。
堀田善衛は仏文だ。定家明月記私抄(1986-88年、新潮社) 方丈記私記(1971年、筑摩書房)がある。内容は解釈というよりは、自分の体験も混ぜていて、現代人が読むとこうなるといった感じだ。私抄がふさわしい。戦争の体験もかなり出てくる。
辻邦生になるとやはり少しはフランスくさい感じはする。
現代小説ならば国文以外の人でも傑作を書くことは理解できる。
しかし古典解釈について国文以外の人が傑作を書くのはどういうことだろう。
医学部ならば外科医が精神科の傑作論文を書くことは考えられない。
素人芸ならできるけれど。
安部公房も現代小説や戯曲を書いたのであって、
古典を論じたのではない。
加藤周一と小西甚一の日本文学論を比較すれば、やはり違いが分かる。
英文学分野で英語でシェイクスピアや聖書を論じて
英国人に尊重されるのが英文科の仕事ではないかと思うが。
多少は内輪褒めもあるのだろう。出版社の事情もあるのだろう。
英文の方に頭のいい人が行くという事情もあるだろう。
しかし丸谷才一という現象は、英文学科の教育の失敗の証拠でもあり、
国文科の教育の失敗の証拠でもあると言えないだろうか。
そんなことを楽々と越えてゆくのが才能というものだろうか。
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翻訳という営みは結局日本語能力なのだと思う。
英国人が褒めてくれることはあまりないはずだ。
よい翻訳は日本語能力の証である。
丸谷は英語という脳回路を耕すことで
古典という花が開いたのだろう。
そして日本語を明らかに豊かにしてくれている。