朝食夕食時に約7割の家庭でテレビをつけている。これはたぶん多いと思う。
時計代わりにする。天気予報が必要。ニュースが必要。
主婦は音がないと寂しいという。
レストランに入っても家族のそれぞれが携帯画面を眺めている一家もある。珍しいが。
おいしいとも言わずそれぞれに食べている。
会食の楽しさがない。
食事の時にテレビを見ていると会話が乏しくなる。
また一日の時間全体でのメディア接触時間が長くなる。
母親としてはテレビを見せておけばおとなしくしていてくれるので
ついつい子育ての道具として使ってしまうという。
子どもの脳は画面情報をスポンジのように吸い取る。
大人が思う以上に影響を受けている。
大人以上に過剰なドーパミンやセロトニンが分泌されていると考えていいらしい。
テレビから流れる言葉が意識の内容になる。
どうしようもない日本語と今は思っているが、
未来の正式日本語になるに違いない。
みんながカエラちゃんの日本語を話すようになる。
未来の広辞苑がいまテレビで流れている。
しかしまた親としてはみんなが経験していることなら経験させないわけにも行かないようだ。
それも一種の必要な社会性である。
親が眉をひそめる画面ばかりが人気番組になる。
子どもはいつの時代もそのようなものかもしれないが
かわいそうでもある。
しかし、場合によっては、親よりも、テレビの方がまだいいという場合もある。
子どもと遊ぶときに
有栖川公園に行くか渋谷に行くかといえばたぶん公園だろう。
しかし子どもが画面の中で学習しているのはテレビ局の喧噪である。
プロデューサーや脚本家は、
何分かに一回は視聴者を驚かせることを要求される。
特殊なコードに支配された特殊な世界である。
ドーパミンやセロトニンのバランスが悪くなっても不思議はない。
マクドナルドを食べてコカコーラを飲ませてカードローンを使わせるための道具なのだ。
消費社会の適応者を作る。
ここでもアメリカ文化の支配といったら言い過ぎだろうか。
そのうち、日本人をもう少し賢くして中国との拮抗関係をアジアに形成することが
世界戦略として米英に有利であると考えるかもしれない。
そうなれば教育が復権し、メディアも良質になるかもしれない。
そのときは内向きの国粋主義的な傾向が強まり、結果として、反中国親米英となるのかもしれない。
あるいはいつまでも大リーグ野球を見せられるのかもしれない。
あまりしゃべらず表情に乏しくアイコンタクトがない子ども。
どう解釈するか難しい。
自閉症などの発達障害の原因となると言い切るには理由がない。
しかし画面は個人に応答してくれない。
参加できない観客である。
そのことは受動的な政治態度にも連動しているかもしれない。
かつて若者が政治的に攻撃的であった時代があった。
テレビゲームで挑発される攻撃性はかなり様子が異なる。
なぜだろう。
正義の味方なら、不正義を正すはずであるが、しらけて、そのあとは劇場に熱狂して、
つまりは政治的な選択をしていない。