子育て

1 「子育て」って?

ここではまず、「家にいて、毎日毎日ずっと子どもと関わる」とは
いったいどういうことなのかを考えてみましょう。

赤ちゃんや子どもといるとき、たいていわたしたちは、
その子が何を感じているのか、何を言いたいのかを知ろうとします。

でも、小さな子どもたちはまだ、言葉ではうまくコミュニケーションをとれません。
そこでわたしたちは、頭で考えるよりもむしろ、
その子と一体になるような感じに自分の感覚を総動員して、
その子の欲求や感情を、からだ全体で感じ取ろうとするようです。

それでも、子どもの要求を完璧にわかるわけではありません。

そのうえ、子どもたちはいつも機嫌がいいわけではありません。
ときには泣いたり、怒ったり、こちらのお願いを聞かなかったりします。
忙しいときに限ってぐずるように感じたり、してほしくないことに限って
するように感じることもあります。

育てるのに大変だと感じてしまうようなタイプの子どもたちもいます。

また、赤ちゃんや小さな子どもは、絶えず危なっかしく動き回ったり、
ベッドや階段などから落ちそうになったり、滑ったり転んだりします。
小さなものを口に入れそうになるし、危ない物、熱い物でもさわりたがります。
テーブルクロスを引っ張ったり、大切なものを引っ張り出したり、
後かたづけが大変なものをばらまいたりします。

ですからわたしたちは、小さな子どもと一緒にいると、絶えずハラハラします。

つまり、子どもと一緒にいるということは、毎日のように出会ういろいろな危険から、
年中無休の24時間態勢で子どもを守り、また、子どもからいろいろなものを
守ることでもあるようです。

そのうえ、わたしたちは、自分のかかわり方がその子の性格や人格、
将来をも左右してしまうように感じてしまうこともあります。
ですから、自分ひとりで子どもと関わっているときには、
とても責任の重い仕事を引き受けてしまっていると感じてしまうようです。

そのような状況の中で、
わたしたちはイライラしたり、ワクワクしたりドキドキしたりしながら
毎日を過ごしているのです。

2 楽しさとイライラ

子どもを見ているとかわいいし、飽きないし、さわると柔らかくて
癒される感じがする人が多いと思います。
笑顔を返してくれたときなどは、うれしくなりますし、子どもといるだけで、
ほんわかした幸せな気分になることがあります。

また、子どもたちは言葉の裏の意味など考えませんし、
「常識」というもので自分の感じ方や考え方に制限を与えたりはしません。
そのような純真で独創的な子どもたちと一緒に何かをしたり考えたりすることは、
思わぬ発見のある、ワクワクするような経験です。

しかし、子どもは結構気まぐれですし、要求ばかりしてきます。
子どもの世話というのは、自分の意志や欲求というよりも、
子どもの都合で動かざるを得ないようなところがあります。
夜眠れなかったり、昼間もずっと目が離せなかったり、ずっと抱いていなければ
ならないこともありますので、肉体的にも疲れることです。
そのようなときにイライラしたり不満を感じたりするのは、ごく当たり前の
反応なのだと思います。

また、いつまでも子どもが泣いたりするときには、どうしていいのかわからず
混乱してしまったり、自分が責められているような気持ちになったりして、
自分も泣きたくなったり、泣いてしまったり、逆に怒ってしまったりもするでしょう。

それでもわたしたちは、そのときそのときに、子どものためになるべく
よりよいことをしてあげたいと思い、そのための努力をしています。
そしてそのように努力をするがゆえに、さまざまなことで罪悪感を感じたり
不安になったり、気持ちがゆれたりするのでしょう。

そのうえ、まわりの人たちから、甘やかしているとか厳しすぎるとかいろいろと
干渉され、不安がつのったり、イライラしたりすることもあるかもしれません。

自分がうまくやれていないと落ち込み、子どもを傷つけてしまったのではないかと
心配になり、子どもの寝顔に「ごめんね」と謝ったことがある人は、
多いのではないでしょうか。

ときには子どもから逃げ出したいと思ったとしても、
それは間違っているんだと感じて、逃げたいと思ってしまった自分にまた、
罪悪感をもってしまうこともあります。

そして、そのような毎日を送り続けながら、まわりから遮断された、
狭い世界でしか生きられていないような気持ちになったり、
自分だけ、まわりの社会や友だちから取り残されたような気持ちに
なることもあります。
そんなとき、わたしたちは、焦ったり悲しくなったり、不満に思ったり
怒りがわいてきたりするのでしょう。

そしてしだいに、子どもを愛したいとか、子どもにやさしくしたいと思っても、
それが難しくなってしまうこともあるようです。

自分が子どもの頃、親から愛情をもらったという実感がない場合、
子どもに愛情を注ぎたいと思っていても、具体的にどうしたらいいのか
わからないこともあります。

また、なんらかの背景があって、自分ひとりだけで精一杯だと感じているとき、
自分より弱い者を守り、その世話をしなければならない育児というものは、
自分をなお一層追いつめ、窮地に立たせるようなものに感じることもあるでしょう。
そのようなとき、育児というものに怒りや憤りの気持ちがわいてくることも
あるのだと思います。

このように、わたしたちは子どもを育てながら、不安や不満、イライラ、
焦り、罪悪感など、いろいろな気持ちを感じています。
そんな気持ちを、率直に話ができる、安心できる場をもつことが、
とても大切なことだと思います。

3 「母性神話」

わたしたち母親が、イライラしたり不安になったり罪悪感をもってしまう背景には、
社会からのプレッシャーがあるようです。

わたしたちのまわりには、根拠がないにもかかわらず、
ほとんどの人が信じてしまっている、さまざまな社会的な思い込みがあります。
これらは「神話」と呼ばれています。

その中でも、まず「母性神話」について見てみましょう。

「母性神話」とは、
「女性にはもともと、母性が備わっている」とか、
「子どもを産めば、自動的に母性がわいてきて、自然に子どもの世話をしたくなる」
というようなものです。

つまり、「女
性にとっては母性は本能である」、
そして本能であるがゆえに「女性は常に母性を感じている」ということなのでしょう。

この「母性神話」があるために、
「ダメな母親だ…」と、母親が自分で自分を責めるだけでなく、
夫、親やきょうだい、友だち、近所の人など、まわりの人から
「母親のくせに」と非難されることもあります。
残念ながら、医者や看護師、保健師、カウンセラー、保育所や幼稚園の先生など、
専門家と言われる人たちから言われることもあるようです。

でも実は、子育ては本能ではなくて、学習なんだと言われています。

「母性」本能と呼ばれるものは、小さくて弱いものを見ると守りたいと思い、
世話をしたくなるような、種の保存のための本能ですが、
これは生まれつき、ほとんどの人の遺伝子の中に組み込まれていると言われています。
しかもそれは、女性だけにあるのではなく、男性にも同じようにあるのです。

つまり、「母性」本能は男女ともにあるのですから、
「母性」本能という名前そのものを変える必要があると考えます。

また、その本能を行動に結びつけるのは、睡眠中に作られるホルモンと、
それが伝達されやすくなるための経験だということがわかってきました。

つまり、たとえ本能があったとしても、それを行動化するためには、
充分な睡眠と学習が必要なのです。

ということは、睡眠不足の疲れがたまっている状態では、
たとえ「母性」本能があったとしても、それを発揮しにくくなるということでしょう。
また、男女とも、子どもを育てる中で、
少しずつ行動化できるようになってくるものなのだと思います。

また、わたしたちは、本能があってそれを行動化するための条件が整っていても、
いつも確実に行動に移すかというと、そういうわけでもないとは思いませんか。
わたしたちは、本能のままに生きているわけではなく、
それをすることをためらうようなものがあったり、先に延ばす理由があったりすると、
本能に忠実に動くわけではありません。

現実のわたしたちは、子どものことをかわいいと思い、世話をしたくなるときもあるし、
そうでないときもあります。

つまり、「最初から、いつもいつも愛情深く子どものことだけを考える母親」というのは、
幻想でしかありません。
ですから、自分やまわりの母親たちの誰かが、
幻想の通りでないからといって、その母親を責める必要はないのです。

また、「母性神話」によるもうひとつの弊害があります。
それは、「母性神話」によって、
「女性は子どもを産んでこそ一人前だ」というような思い込みも生まれることです。

そのため、出産歴のない女性にプレッシャーを与えてしまいますし、
出産歴のある女性に比べて、出産歴のない女性が半人前で劣る人だと
見られてしまうこともあるのです。
女性を分断してしまうそのような考え方は、
ぜひ、なくしていきたいと考えています。

4 「三歳児神話」

では、次に「三歳児神話」について見てみましょう。

「三歳児神話」とは、
「子どもが三歳までは家庭の母親のもとで育てないと、
 後々取り返しのつかないダメージを子どもに与える」というものです。

これも、科学的に証明されているわけではなく「神話」なのですが、
それでも結構信じられているため、子どもを保育所に預けようとしたときに、
「三歳までは母親が自分で育てないと、子どもがゆがむ」と言われたり、
「子どもがどうなったとしても、自分のやりたいことさえできればいいのか!」
などとまわりから非難されてしまうのです。

つまりこの「三歳児神話」によって、母親だけが、
子どもの成長にとって大切な人間なんだということにされてしまい、
母親と子どもだけを、家庭に閉じこめることになってしまうのです。

その結果、子どもを預けて仕事をする母親は、
子どもに悪影響があるのではないかと不安になったり、
自分は母親として無責任なのではないかと罪悪感をもってしまいます。
一方、子どもと家にいる母親は、自分しか子育てをする人間はいないし、
その自分の関わり方が子どもの人生を決めるのだと、
必死にならざるを得なくなるのです。

また、三歳までが大切だと力説されるために、
母親の焦る気持ちを引き出してしまうことにもなってしまいます。

子どもに何か困ったことが起きると、すべての責任が母親だけにあると受け取られ、
母親の何か、たとえば仕事をしているとか、関わり方が厳しすぎるとか甘すぎるとか、
とにかく何か理由を見つけられ、母親だけが責められてしまうことになるのです。

実は、この三歳児神話を生み出すもとになった観察や実験の報告があります。

スピッツの「ホスピタリズム」についての論文や、
ボウルビィの「母性剥奪(喪失)」についての論文、
また、ロレンツのハイイロガンの「刷り込み」の研究や、
ハーローのアカゲザルの実験結果なども利用されることがあります。

しかし、実験や観察の結果をどう考察するのかは、
その人の価値観や思い込みがかなり反映されてしまいますので、
実験の方法や考察の仕方によっては、全く違う結果が導き出されるものです。

しかも、スピッツやボウルビィの出した結論を、
使う側がまた、歪曲して使っているようなところもあります。

結論を出した人やその結論を使う人の思い込みにより導き出されたものは、
科学的な根拠にはなり得ないと考えます。

本来子どもは、まわりの人たちと、さまざまな関係をつくりながら育っていくものです。

母親との関係も大切だとは思いますが、
それと同じくらい、他の人との関係も大切なものです。
大切なのは、「母親かどうか」ということよりも、
まわりの人たちがその子と、どんな関係をつくっていくのかということです。

また、なるべくたくさんの人が子どもと関わっていく方が、
誰かひとりに負担がかかることもないですし、
子どもも幅広く、いろいろなものを受け取ることができるのではないでしょうか。

また、子育てに遅すぎるということはありません。
三歳までに完璧なものを作り上げていないと、後々とんでもないことになる、
などということはないのです。

もし「神話」が真実なら、何らかの理由で赤ちゃんのときに母親と別れた人は、
全て、とんでもない人生を送ることになります。
しかし、そのような状況の中でも、一生懸命に自分の人生を生
き、
幸せになっている人はたくさんいます。

子育ては、少しずつ少しずつ長い時間をかけて、子どもと一緒に
人間関係をつくりあげていく過程です。
いつからでも、何かに気づいたときから変更可能なのです。

小さい頃に時間を戻すことはできませんが、
その子との関係性のあり方に変化を起こすことは、いつでもできるのです。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~with3/kosodate/youji/youji.htm