日本的犠牲主義 マゾヒズム

日本人は契約に従って人間関係を結ぶのではなく
暗黙のうちの義理人情が大事なのだといわれ
実際サラリーマンでも微妙な貸し・借りの世界ではある

その中で昔からいわれる
日本的マゾヒズムというものがある

真性のマゾヒズムは勿論虐待されることが目的であり最終的な報酬であり
虐待されることで快楽が完結しているものだ
日本的マゾヒズムは違う
だから日本的と形容詞がついている

すすんで我慢して耐え、その報酬を未来に期待する
そこには契約もない
期待を無視すれば義理も人情も分からないやつだと
言われる

どのくらいの我慢をしてどのくらい耐えたのか本人にしか分からないことも多く
そのつらさを相手にくみ取ってほしい、くみ取るのが当然だと思うわけで
なかなかややこしい

この場合はマゾヒズムという言葉はあまり適当ではないと思うのだが
昔からそのように呼んでいる

確かに自己陶酔的に自己犠牲に酔っている人もいてマゾヒズムとも呼びたい状態なのだが、
ここまで犠牲になったのだから
私の言うことを聞けとの強い主張でもあるわけで
マゾヒズムどころの話ではない

日本的マゾヒズムの困ったところは
自発的日本的マゾヒズムは誰にも止められないことだ

やめてくれといっても勝手にやってしまうし
だから余計なことだと言っただろうと言っても、
私の気持ちが伝わらないのかと
さらに犠牲を強調する

そのような事態になって
無視して進める人は強い人で
たいていの場合は
何かしらの妥協案を用意する

半ば強制なのである
恐ろしいことを考えたものだ

さらにすごいのは
日本的マゾヒズムを利用して、食い物にして、太っていく人間もいるということだ
犠牲だけさせておいてあとは知らぬふりで心が痛まないなら
丸儲けである
上には上がいるものだ