集団教育の意義

誰でもそれなりに自分は特別で自分の家族は特別だという意識を持っている
他人から見ればつまらないことに
一族の誇りがあったりする
それは当然のことながら考え直した方がいいものなのだが
そのきっかけが難しい

日本では長く集団公教育が自己愛矯正の役割を担ってきた
公教育機関は特にエリート選抜主義ではないから
いろいろな人がいて自分のその中の一人で例外は認められず
いやな給食も食べなければならず
試験をすればほどほどのもので
父母が言うほどは才能はなく
音楽や体育についてもほどほどのもので
それならばそれなりの道を探すしかないと覚悟を決める

そんなプロセスが中、高、大と続き、そのあとで会社勤めが始まるので、
接続は良かった。
自分はその他大勢の中の一人で、
何も特別扱いされる存在ではないと身にしみている。

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最近は少子化もあり、ほかにどんな要因があるのか因果関係ははっきりしないが、
とにかく、自分たちは特別なのだと一家を挙げて信じている人もいるようで、
モンスターベアレントと呼ばれたりする。
もちろん例外的存在ではあるが、そのような人たちが存在できて、名前も付けられるというのは、
実に時代の特徴であると思う。

中、高、大はそんな調子で、自己愛の肥大を訂正する機会にはならない。
成績が悪くても本気になればすごいんだと思っているし、
運動能力についても、自分は本気で取り組まないだけで、才能はあると思っている。

親のいうことも同じで、
この子は能力はあるがやる気がないと言う。

そのような環境で、自分の実際の姿を受け入れることを回避して過ごしてきた若者が、
会社に入ると、環境が一変する。

会社は自己愛養成孵卵器ではない。
学校も塾も商売だからお金を取っておだてていただけだと分かる。
そこから先はなかなかきつい。

自己愛が肥大していいわけばかりしている若者に対して
大人が言えるのはたった一つ、
結果を出してくれと言うことだ。

態度がどうであっても、考え方がどうであっても、
結果だけ出してくれれば、会社は回っていく。

上司はすでにあきれているので同じ理想とか共通の価値観などは期待していない。
どんなに酒を飲んでもどんなに残業してつきあっても
何も生まれないことが分かったから
もうつきあわないらしい。

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現在会社の上司が苦労していることを
昔は学校の先生がやってくれていたのだと分かる。
現在では学校の先生がみんなパスしてしまい、
会社の上司が肥大した自己愛を受け取る。
うぬぼれているだけで仕事はできない。