理解と被害的と誇大的

物事を理解するのに十分な情報がない場合、
あるいはその情報を十分に理解する理解力がない場合、
人はしばしば被害的になり、
場合によっては誇大的になる。

被害的になれば危険から自分を守ることができる。
誇大的になれば、くよくよする時間をなくすことができる。
いずれも自分にとって部分的な利益がある。
本当はきちんと理解して正確に現実的に対処するのがよいのだが、
いろいろな事情でそのようにはできないことも多い。

妄想や迷信
という記事にあるのだが、
人間は危機的状況、自制心を失ったとき、精神のコントロールを失って理性を失ったとき、
妄想や迷信に逃げ込み、
あるいは壁のシミが人間の顔に見えたりする(過剰相貌化)。

感情の制御を失うと、
空想上でもいいので、秩序を求めるようになるという。

逆に、ある特定の単純な考えを刷り込みたいときは、
危機的状況を演出すればいいことになる。

振り込め詐欺で、電話を受けたおばあちゃんが、
孫が株で損をして困っていると聞いただけで動転してしまうというのはどうしてなのだろうと思うが
とりあえずそういうものらしく、
危機的状況の演出には成功していることになる。

危機的状況を演出するのは視野を極端に狭くする目隠しをつけるようなものだ。
わずかに見えているその部分しか見えなくなる。
それが事実のすべてになる。

それは程度こそ違うが日常生活でもしばしば起こっていることだ。
他の可能性はないか、他の選択枝はないか、考えもつかなくなる。

そのような極端な視野狭窄状態の時に、
被害的になって自分を守ることは、一面で合理的である。
またその場合に、誇大的になるのも、情報不足または情報理解不足から理解できるところでもある。

被害性と誇大性は微妙に関係がある。
なぜ自分だけがこのような被害に遭うのだろうと考えると、
それは自分が特別だからだという結論に至る。

孫の場合でいえば、孫についてのわずかな誇大性がやはりあるように思う。
それを基盤にして、容易に操作されてしまうのだろう。

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事実を事実のままに受け入れることが難しいのだ。
そんな単純なことが難しい。

たとえば人間は嘘をつく。誇大性が嘘をつかせることが多い。
相手が嘘をついていなくても、嘘をついているに違いないと疑う。
疑うのは被害性である。
そしてそれぞれの裏側にそれぞれが潜んでいる。
嘘をつく人間の心には誇大性があるが、さらに被害性が潜んでいる。
だから嘘をつかざるを得ないこともある。

相手の嘘を疑う心理についていえば、
被害的になっているから疑うのであるが、
なぜ被害的になるのかといえば
自分は被害のターゲットにされるくらい特別なのだという誇大感がうっすらと存在していることも多い。

被害感と誇大感の同居は広範囲に見られる。

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解決は事実を正確に認識することであるが、
それは普通の人間には難しいことだ。

フロイトは、未来の人間には可能なことだと希望を抱いていたかもしれない。
現状ではまだ無理だとフロイトに報告するしかない。