文学的感動の鋳型について

文学とは何か。
感動とは何かなどをふと考える。

子どもの頃に感情の鋳型ができる。
私の場合は大衆芸能であり、
口ずさんでいたのは歌謡曲である。
だから今でも歌謡曲的な何かに反応しているのだと思う。
それはとても古典的な感覚で
だから万葉集にも古今集にも反応するのだと思う
逆に言うとここ千年で進化していない部分で感動しているのだから
高級文学には反応していないと思われる
たぶん教養として接しているだけだろう

高級すぎる文学的要素は特殊な階級のもの、特殊な感性のものと感じられる。
場末のキャバレーで歌われて、
ろくに歌を聴いていない酒飲みの心にもいつか残る歌が
私の思う文化の原型であり感動の原型である
酒を飲みくだらないことをしゃべりみだらな想念に満たされて
それでも何となく心に残ってしまう港町のキャバレーの歌

高級趣味を気取っている人たちがモーツァルトなどをありがたがっているのもおもしろい
あのオペラなどは静かに全場面を見るものではないと思う
大人がいろいろなことをしながら眺めて
時々ハイライト場面で「いいぞ!」なんていうものだろうと思う
ブラームスなんかと違う
静かにかしこまって聞いて感動しているモーツァルトというのは
なんか変だと思うのである

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鋳型というからには再生産である
DNAみたいに保存的な何かである
全然最先端ではない
とても原始的な感覚
しかしだからこそ安心感がある

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Joumonなどとローマ字でつづって
焦らないでおおらかにとか
いっていたが
縄文時代はおおらかどころではないだろう
何を言っているのかまったく意味不明である

縄文を見ておおらかという人間の嘘の心を悲しむ