社会化不全というか
社交不全というか
ソーシアリゼーション不全
とでもいうべきもの
引きこもりの像とも重なり
しかし単純な引きこもりでもない
統合失調症の社交不全と似るのだが
統合失調症の症状そのものはない
たとえばこんな簡単な例を挙げる
まったく架空の話なのでたとえになるかどうか分からないが
マラソンの得意な子がいたとする
親もこの子は特別だと言って育てる
学校でも特別扱いされる
自分はひたすらマラソンのために生活している
そのまま大人になる
誰も困っていないしむしろすばらしいことだと考えられるのだけれど
ソーシアリゼーションの観点から見れば
長い間の孤立であり引きこもりと同等のことが起こっている
困ったことに、この人がマラソン選手として
アイデンティティを獲得できればいいのだが、
世の中はそんなに簡単ではなくて、
選手としても大成できず、指導者にもなれなかったとする。
たいていは体育の先生になってそれなりに生きていくのだけれど
それも拒んだとする。
拒むのは自尊心を保つためである。
マラソンで養った巨大な自尊心を傷つけないで守りたいととりあえず思う。
しかし拒んだところでほかに道があるわけではない。
女性ならば家事手伝いということで家にいることもできる。
結婚して家にいることもできる。
引っ込み思案な娘ということで何とかなる。
男性の場合はやはり何とか都合を付けて職を見つけ、
社会に踏み出すことになるのだが女性の場合にはそこまでの圧力はない。
そうなると次の難関はPTAとか自治会とかその辺りだけれど、
それも親の助けを借りて何とか切り抜ける。
だいたいいつまでもソーシアリゼーションしなくても生きていけてしまう。
その一方で誇大感と賞賛欲求は保持される。
共感能力は育たないので
子育ての時に困難も生じる。
子どもの気持ちが分からない。
子どもはといえば、当然自己愛的な傾向に育てられる。
親の自己愛に辟易したり嫌悪を感じるのはずっと後のことで、
子どもの頃は親の期待通りにできない自分を責めるだけだろう。
そのようにして自己愛型性格が再生産される。
こうしてみてみると特に誰にも責任も落ち度もないように思われる。
これは極端なつくり話で、
実際はスポーツ選手はいろいろな場面で
体育会的な交流を経験するもので、
それなりに体育会的な人間になるようだ。
そうでない人たちの方が困難がある。
趣味と得意はコンピュータとか
得意がピアノとか
そんな場合が困る。
しかし難しいもので、芸術家は突出していれば、誰にも理解されない。
それは構造としてはそういうことになる。
コンピュータがすごく得意だと周囲には同程度のことを話し合える友人もいなくなってしまう。
英語でインド人とコンピュータで話していたりする。
こうなると誇大感や賞賛欲求にも理由があるし
共感不全も人間として共感できないのは困るとしても
芸術や特殊な領域では共感不可能となるのも仕方のないことではある
領域を区分して普通のつきあいができるようだと親も安心するけれど
なかなかできないことが多い
自分の領域のない人というものは
頭の中がたいていは週刊誌になっているもので
何ともしようがない
それでもソーシアリゼーションかといわれると
答えも難しい
それは一種の誇大感で自分を特殊と思う傾向の一つだといえば
確かにそうなのだけれど
それでいいのかどうかは状況による