今井保次氏は次のような見解である。
職場でのうつ病発症を説明する「役割理論」
心の病にも多くの種類がある。例えばアメリカ企業で心の病といえば、酒を含む薬物依存が圧倒的に多い。ところが日本企業の場合は、うつ病が一番多くなる。私どもの調査では、職場の心の病で一番多いのは「うつ病」であるとの回答が過去3回の調査で常に90%を超えている。日本企業に求められるべきは、このうつ病対策である。
うつ病の理論としては、脳内にあるセロトニン、ノルアドレナリンなどの神経伝達物質の機能不全によるものという説がもっとも有力だが、これは医師がうつ病に抗うつ剤を投与することの根拠にはなるものの、職場でうつ病を予防しようとする時には役に立たない。
あまり知られてはいないが、ドイツ精神医学者であるアルフレート・クラウスの「役割理論」は、職場の現状からうつ病の発症を説明できる唯一の理論である。
アイデンティティー(自己同一性)を、つまり自分自身であることを、自分に求めるのではなく社会的役割に求めることが危険な状況をつくるという説である。他者から期待される役割に自分を同一化しすぎるために、役割の喪失、役割矛盾に対応できなくなる。役割に同一化するということは、義務感・責任感が強く、行動に裏表がなく、規範にしがみつくことになる。また役割としての人間関係にはきわめて同調的となり、他者との安定した人間関係に依存することになる。そして同じ対象に愛と憎しみの両面を許容することができなくなる。以上、クラウスの理論はうつ病の特徴を見事に説明している。
私たちは他者の提供した役割(他者との関係)にのめり込み、役割を果たすことで他者からの承認を得ようと必死になっている。グローバル化と技術革新によって、職場環境の変化はめまぐるしいものになっている。この時、仕事の失敗、仕事の変更ないし消失、人間関係の破綻は、自己を失い危機的な状況をつくることになる。
過酷な現実を生む市場主義、そして成果主義への反省
市場主義がどんなに過酷な現実を生むかということは、最近の穀物価格の高騰で貧しい国の人々が食物を得ることができず、暴動まで起こしている事実から明らかである。この市場主義の理念が職場に導入されたのが成果主義である。
市場主義に正当性の主張があるように、成果主義にも正当性はある。例えば成果に応じて評価することはアリストテレスの倫理学以来、正義にかなった行為といえる。しかし成果が集団や管理職ではなく従業員一人ひとりに求められているため、人々の協力やコミュニケーションを阻害するという副作用をもたらした。そして当然のこととして、成果が出なければ責任をとらされる。もちろん担当者としての責任はあるが、しばしば過度に責任を追及される危険がある。
責任追及への過度な恐怖、オストラシズム(陶片追放=古代ギリシャの秘密投票による追放制度)ともいえそうな、仲間外れになることへの過度な不安、これらを解消する成果主義もあり得たと思われるが、事態は変化しなかった。先に記したように、役割を果たすことで他者からの承認を得ようと必死になることは、うつ病への親和性を高める。職場でうつ病が問題になる理由はこの点にあると思われる。
今後の方向は、各人が協力し合う「新経営家族主義」
今後の方向としては、成果主義を規定した就業規則上の文言を変えることではなく、オストラシズムともいえる企業文化を変えることだろう。その目指す方向に名称を与えるとすれば、新経営家族主義とでもなろうか。そこには共通の目的があり、役割分担を明確にし、他のメンバーが何をしているかを配慮しながら各人が協力してその目的実現に貢献し、結果としての成果を分かち合う集団のことである。例えば、QC(品質管理)サークルや創意工夫の提案のために特定の者が無給で残業をしたり、仕事のミスの謝罪に上司同伴でなく担当者個人が行かされたりする職場ではない。