信頼やお互い様

水やガスが社会インフラであるが
信頼やお互い様が人間社会の心の社会資本だという指摘。
そうだと思う。

一部のゆがんだ論理の人に全体が揺れているような気がする。
大部分の人はきちんとわきまえている。

一部の人は子どもの論理を持ち出す。

結局、あの人はどこの誰で、どのように育ってきて、どのような境遇にあるか、
そのようなことをお互いに知り合っていれば
多少の共感も生まれるものだろう。

個人情報を隠す方向というのは、
共感が生まれにくい社会にする
ということなのではないだろうか。

個人情報を保護して、
無用な被害を防ぐことは無論必要であろう。
しかしその方向ばかりで、個人を透明化していくと、共感不可能な抽象的な存在になってしまうように思う。

ネット社会では実際そのようだ。
たとえば、現実社会で人と会ったときに相手に、目つきとか顔色とか服装とか
視覚情報を与えているわけだし、
話し方は横柄かとか、謙遜気味かとか、いろいろな情報を与えているものだ。

それらをかなり隠してしまった形で、ネット社会では接触することになる。
性別について偽ったり、年齢をごまかしたり、そのような操作は行われるだろう。
そのような社会があってもいい。それはそうだと思う。
しかしそこにばかりいたら、
人間の共感性が育たない。

ところが我々の社会制度は
平等な個人の結合が基礎になっていて、
そこでは個人の属性は問題にされない。
対等な個人があるだけだ。

権利としては対等な個人というだけで、
それは法律的な抽象的な思考のレベルのことだと思うのだが、
そこだけを抽出して、
子どもの論理は言い張る。

しかしその思考法は近代都市社会にぴったりであるし、
ネット社会にはもっとぴったりでである。