ネット社会のことを考えていたら
大人気で上司にしたい人ナンバーワンだったような監督が
大いに批判されて
「私をたたけば売れるらしい。日本はいじめ国家になっている」といった意味のことを
発言するに至り、
当然決めているのはあの人物なのだろうけれど、
ネット世論が押し切った形である。
渡辺さんと星野さんは気質が合うのだろう
性格というような人間的なファインなものではなくて
もっと動物的な部分の気質の一致があるのだろう
渡辺さんって分かりやすい
親戚なら頼りになるだろうけれど
関係ない人にとってはなんだか困った人だ
歴代の人物はマイクを向けられるような機会をまず作らない
この人はそのくらい自己顕示的なのだろう
自分の自己愛に翻弄されて傲慢さを誇示してしまう
あとでしまったとおもっているだろう
いい結果はもたらしていないから
いずれにしても読売新聞の傾いた筆の力よりも
ネットの力が圧倒的だったということになる
年の順からいえば落合さんでも良かったのだろうけれど、
また野村さんでも良かったのだと思うけれど、
そして原君はまだ先でもいくらでもチャンスがあっただろうけれど
なぜかまた読売関係者で決まり
そもそも王さんの時だって本当の意味で強くて勝ったわけではなくて、
もうだめだろうというところから奇跡の逆転優勝だったような記憶がある
負けることもあるし当然だと思うがなあ
しかしもし星野さんがオリンピックで成功していたら
巨人軍の監督候補になっていたかもしれないということで
あやういところだった
守れないお相撲さんのような人が何人かいてくれたおかげで
読売巨人軍の伝統を守れたような気もする
星野さんのやりたい放題にさせたことでかえって
渡辺さんのもくろみは潰え
結果としては原君を守ることができた
もしも作戦として考えるなら
星野さんのことは徹底的に知らんふりを決め込んで、
勝ったら採用、負けたら不採用、そう言い渡しておけば良かったはずだ。
イチローは熱くなっているような発言をしているけれど
たかだか野球なのだから
そして
野球の効果は給料をいっぱいもらうことで尊敬されるのではなくて、
筋を通すこととか、
信義を尊ぶこと、
いいことをした先輩には敬意を払うこと、
いいことをした後輩には親切にすること、
謙虚であること、
などの徳目をひっそりと実行することが大切なのだと思う。
熱くなるなら、何が日本のプロ野球を本質的に害しているかを発言してはどうか?
なぜ全国民的人気を失いつつあるのか、そこに熱くなったらどうか?
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そんな野球界の状況もあり、
ざっと見ると、オリンピック前と後で、この大きな違いは何だろうと思う。
あたかも、オリンピック前は100%星野支持でオリンピック後は100%星野批判といったような具合で、
all or nothing で揺れているようでもある。
all or nothing とは要するに子どもだということであり、
大人になれば、いろいろな事情が分かるので、
オリンピック前でも、48-52くらいでまあまあ星野支持、
オリンピック後でも、45-55くらいでまあまあ星野批判、
それくらいが大人というものだろう。
そのような極端な揺れが起こるのは
小選挙区選挙である。
死に票が多くなる。
大人の考えというものは単純にイエス・ノーではなく、
微妙に46-54とかの厳正な判断を積み重ねてゆくことにある。
星野さんの立場に立って考えてみようとか、
酷使された中日の選手の立場に立って考えてみようとか、
いろいろと考えられる。
それらをなんだか感情で押し流して、
大声で叫んでいる人に引きずられるのは、
良くない。
声の大きさではなく、理性の正しさである。
小選挙区制は、小泉選挙で見たように、声の大きさと、理屈の単純さである。
それではいけない。
複雑でもきちんと理性的に見続けなければならない。
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マスコミとかネット世論とかは、
語り尽くすということがなく、ただイエスかノーかを単純に叫ぶ人に引きずられやすいと、
これまで何度も見てきた。
テレビは限られた時間の中で伝えるもので仕方がない面もある。
新聞は第一読まれていない。
ネットは熟読するものではなく、見出しを見るもの。
わずかにたとえば月刊誌「世界」などがあり、
また岩波新書などで勉強できる。
そのようなものでこのネット社会のall or nothing の傾向を補っていく必要があると思う。
バナナもそうだ。いいといえばみんなが一斉に飛びつく。
これが一つには、マスコミを操作する側の全能感を作り出している。
全能感に支配されたとき人間は自己愛的に退行する。
傲慢になり共感を失い、賞賛を求める。
我々としては視聴率とコマーシャル提供会社商品の不買運動で抵抗するしかないだろう。
ネガティブな意思表示もできるということをしめそう。
そして深い考えも可能なのだと示そう。