「うつ病」の外延-正常な憂うつ、正常な疲弊

骨折でも、カルシウムが足りなくて骨折するときと、
交通事故で骨折するときは違うわけだ。

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臨床精神医学37(9):1163-1165、2008
「うつ病」の外延-正常な憂うつ、正常な疲弊
鈴木國文
Keywords:うつ病(depression)、憂うつ(depressiveness)、外延(denotation)、拡散(diffusion)、疲労(fatigue)

1 「うつ病」概念の外延の拡散
日本において「うつ病」はこの10年ほどの間に2.1倍に増えたという。算出の仕方によってはもっと高い数字を挙げる人もいるだろう。この増加の要因としてすでにいくつかの事柄が指摘されている。DSMにおける大うつ病概念の影響、SSRI、SNRIなど新薬の登場、精神科医療の敷居の低下などである。これらの要因についてはすでに繰り返し語られてきたが、ここではさらに、「うつ病とはいえない落ち込み」の医療化という問題を取りあげておくことにしたい。当然、この問題には、先にあげた3つの要因がさまざまな程度に関与しているが、ここでは、この「うつ病とはいえない落ち込み」を「正常な憂うつ」と「正常な疲弊」というふたつの視点からとらえ、敢えて考察の俎上に載せることにしたい。

2 『正常な憂うつ』について
「憂うつ」とは、さしあたり「気分」において「動きが停滞する様」ととらえていいだろう。では正常な憂うつ」はどのように定義することができるのだろう。そもそも憂うつにおける「正常」と「病理」の境は、停滞の程度の強さや持続の長さによるのだろうか。それとも、停滞の質の違いによるのだろうか。あるいはむしろ、明確な原因の有無によるのだろうか。

確かに「上司がいやな人で憂うつ」とか「試験が間近で憂うつ」というような場合、原因が特定されていて、異常という観は少ない。しかし、憂うつには、正常であっても、あまり原因が明確でないものが含まれるように思う。「憂うつ」は、「悲哀」「恐怖」「落胆」などに比べ、出来事との関連が薄く、どこか身体要因とつながるニュアンスがつきまとう。

10代後半の頃、夜、考えごとをして高揚し、あれもしたいこれもしたいととりとめもなく想いを膨らめ、明け方近くなって眠りに落ちる。翌朝、目を覚まし、ひどく憂うつな思いに包まれていることに驚くという経験は、多くの人にあるのではないだろうか。これが病的か正常か軽々にはいえないが、学生などにこの話をすると皆一様にうなずく。思春期後期には、この種の高揚と落ち込みがある程度の頻度で認められるのだと思う。

実は、「軽いうつ」について、正常と病理とを截然と分けることは容易ではない。むしろ、ここでは、これを分ける線が、文化の側が憂うつをどこまで引き受けているかという点に依存しているという点に、注意を向けておきたいと思う。文化の側の要因が「正常な憂うつ」の医療化という問題と表裏の関係にあるのである。

「ネクラ」という表現がよく使われたのは80年代のことだが、このことばの源は、タレントの夕モリが「こうみえても私、根は暗いのです」と発言したことにあるという。「外向き明るいが根は暗い」という二重性をもったこの表現が、「ネアカ」と一緒に用いられるようになって、「根っから明るい」「根っから暗い」の意味に転じ、80年代、盛んに使われた。「外向き明るいが根は暗い」から「根っから暗い」へのこの転化は、その間の文化事情の変化を反映しているようで興味深い。次第に「明るさと暗さの矛盾を孕む性格」といったものから興味が離れ、「明るいのがよく、暗いのはダメ」という単純な価値観が世を覆うようになった。この間に、「憂うつ」とか「憂い」の文化的価値が大きく下落した。「憂い」「憂愁」さらには「沈思」とか「熟考」までが、80年代のいつからか大きく価値を下げたように思われる。

文化が「憂うつ」や「憂い」を引き受けないようになって、「憂うつ」は医療場面に多く現れるようになった。おそらくある時代までは、人格とか倫理性に統合された「憂い」というものがあって、それが文化の中である機能を持っていたのである。

3 「正常な疲弊」について
「うつ病」と「正常な疲弊」の関係についても考えておこう。疲弊という問題が「うつ病」と結び付けられて論じられるようになる経緯において、電通過労自殺事件に関する2000年3月24日判決の影響は大きい。この判決は、長時間労働と自殺を、その間に「うつ病」という項をおいて結び付けることによって、産業場面における「うつ病」の位置に大きな影響を与えた。訴訟と関連して、長時間労働と自殺との結びつきが認定されたことは、産業場面の健全さを守るという点では大きな進歩であったが、長時間労働と自殺を結びつけるために「うつ病」という概念が使われたことは精神医学にとって必ずしも進歩とはいえないだろう。長時間労働による疲弊と「うつ病」との異同が明確に論じられないまま、長時間労働と「うつ病」という因果関係が一人歩きする結果を招いてしまったからだ。

不眠不休で仕事をした時、疲れ果て、何の対応もできなくなるほどに追い詰められることはある。初期にはぐっすり眠ることで回復するが、この忙しさが、何度も何度も繰り返されたり、長い期間続いたりすれば、回復は難しくなる。この状態は「うつ病」なのだろうか。これは、精神医学的には、まずは「疲弊」と正確なことばで呼ぶべき状態であろう。いずれにせよ、こうした状態の回避は、医療によって行われるべきものではなく、まずは企業の側が対応すべき問題である。これを医療化してしまうことは、社会として成熟とはいえない。あるべき対処の仕方は、早く病院にかかることではなく、むしろ早く休みをとることであり、これを迅速に実現すべきは企業の側なのである。ただ、個人の側の要因で、自分のできる仕事量と社会が求める仕事量との間で調整ができなくなる人がいることはいる。そして、それがある種の性格傾向に起因していたりする。こうした問題を医療の側がどこまで明らかにしていくか、重要な論点ではあろう。

4 「うつ病」の外延拡散から学ぶべきこと
こうして改めて考えてみると、「うつ病」の中核群を正常な「憂うつ」や正常な「疲弊」から截然と分けることは思いの他難しい。「うつ」に関しては、「精神病状態」ほどに明確に内因性を規定する兆候がないのである。「うつ病」の外延拡散から学ぶべき最も重要な点は、実は、「うつ病」の囲いが思いのほかもろかったという点なのかもしれない。しかし、われわれ精神科医は「うつ病中核群」と呼ぶべき、ある意味でかなり重篤な病態があることを確信している。うつ病の中核群について改めて画定することは現在の精神医学にとって極めて重要な課題なのだ
と思う。

それに関し、一点だけ気づく点に触れておくなら、われわれはむしろ、月経前困難症に伴う抑うつとか、産後うつ病などに、うつ病中核群を特徴づける要因の示唆を得ているのではないかという点である。これらの病態では、脳の機能的変容を背景にして気分の変容が引き起こされている。そうした、脳の機能的変容が関与する「憂うつ」の一群があり、おそらくわれわれは、その程度がある程度以上のものに「うつ病中核群」をみて、それを「内因性うつ病」と呼んできたのである。

「うつ病」の外延拡散から学ぶべきことは、もちろん、他にもいくつかある。紙幅の都合上、ここでは1つだけ言及しておくことにしよう。それは、「軽いうつ」であっても、「軽い躁」との間で周期性をもって現れる傾向があるという点である。双極Ⅱ型に関する知見、繰うつ混合状態に関する知見などは、「うつ病」の外延拡散がもたらした重要な知見であろう。「気分」は、正常なものであっても何らかの周期性、循環性を示すのである。