利子は払わないは、金は貸さないわで、社会的な存在意義が0

日本の金融機関というのは、全くどうにもこうにもしょうがない存在だ。
利子は払わないは、金は貸さないわで、社会的な存在意義が0、いなマイナスの社会的害毒でしかない。所詮は日本の旧大蔵帝国の出先機関に過ぎず、未だにその本質は変らない。
しかし、ランズバーグが言うように、もともと大銀行など不要な存在なのだ。

グレーゾーン金利の金利規制で、多くのサラ金業者が消えて、闇金が増えているようだが、この問題の本質は、金利そのものにあるのではなく、民法の債権本位主義にあるのは前に書いたとおりだ。

つまり、あるべき姿は単純であり、債務本位主義に民法を抜本改正して、貸し手側にリスクを負わせることにつきる。
ようするに、債権者本位主義の民法に守られている以上、貸し手側は一切のリスクを負っていないのが現状なのである。
銀行もサラ金もリスクを負わないことが法律で保証されている状態で、金利が高いのどうのといってもナンセンスだ。なぜなら金利と貸し出しリスクが全く対応していないからだ。
サラ金の金利が高いのはリスクに応じたものではなく、単に銀行が金を貸さないことに対するプレミアム分にすぎないだろう。

アメリカでは、お金を借りるときも家を借りるときも保証人など要求されない。そのような要求は違法行為なのだ。ローンも原則、ノンリコースローンだ。
まして連帯保証人制度などという野蛮な4世紀前の制度を未だにもっているのは日本だけだ。

貸し手がリスクを負って初めて、リスク計算の必要性が生じる。リスクが最初から無ければ、日本の金融機関のようにリスク計算など一切しない。

日本は、このような劣悪な環境にありながらも、多くの偉大なアントレプレナーを戦後輩出してきているが、もはやそのようなハングリー精神を若者に求めるのはナンセンスである。
それは、経済的に無謀な冒険を相手に期待するに等しい。

日本の金融社会主義は、バブルの崩壊過程を経てさらに強化されたかのようにみえる。
まずは、連帯保証人制度の廃止をはじめとする、民法の抜本改正から始めなければ日本経済の将来はない。
そしてこうした一見関係なさそうな民法の正常化が日本の金融システムをも根本から変えることになるのである。