自分がほんとうに生きる場所はどこで
自分が最後に帰る場所はどこかと
いまさらながら
つまらない問いを考えることもある
もし
自分が本来いるべき場所があるのなら
そこにいたらどんなに落ち着くだろう
もし
自分が最後に帰る場所があるのなら
そのことを知っているだけでどんなに落ち着くだろう
ドラマ「風のガーデン」では自然に本来いるべき場所と帰るべき場所が提示されている。
しかし多くの人にとってはそれは自明ではないし、
考えてもどこにもないのだ。
可能性として二つくらいというのでもない。
ひとつもないのだ。
人は親切で言ってくれるかもしれない。
ここはあなたに関係のある場所ではないですか、
本来の場所というわけではないけれど
落ち着くならいてくださいと。
しかしそれはほんとうの場所ではないのだ。
一時的な場所だ。
私には先祖代々の土地がある。
お墓もある。
守るべき人は私なのである。
子どもはいないので私で終わりになるのだが、
お墓については
誰か親戚の人に頼めばいいらしい。
先祖代々の家については
養子縁組みの形で
血縁者を相続人として定める話になっているらしい。
それと同時に墓の話も決まるのかもしれない。
そこがほんとうの場所なのかと言われると
そんな気もしないのだ。
ではどうしたいのかと聞かれても分からない。
広く言って、
この世というものが自分のすみかではないような気もする。
この世で私は旅人に過ぎないような気もする。
とりあえずの金策が大変という世の中で
何をのんびりしたことを言っているのかと言われそうではあるのだが。
睡眠の中で
深い睡眠の中で
私はほんとうの場所を感じていることがある
先日はベッドに横になっていて、
駐車場の方からのもの音で目が覚めた
夢うつつに私は昔住んでいた家の外から響いてくる音かと思っている
一瞬の後にそれは錯覚と気がつき
そんなことも思うものかと感慨を覚える
ちっぽけな人生だったなあと思う
思い出すことと言ってもただそれだけなのだ
いやそれには前段がある
そのときは夢を見ていたのだ
私はあまり深い夢を普段は見ないのだけれど
時期をまとめて意義深い夢を見る
そのときも印象に残る夢で
実際自分はこんなことを考えるのかと驚くような夢だけれど
そのことを背景にして
その朝の連想を考えるとあまりにも小さくて日だまりのようで
お人形遊びのようなほのぼのとした風情なのだ
思い出してみて心にかかる人間関係があるけれど
よく思い出してみれば
そんなものは枝葉に過ぎなくて
もっと幹の部分に当たるいろんなことが
ただ時間が過ぎたというだけで
何も変わらずにそのままで横たわっているのだ
そんな意味ではいろいろとあったことを
忘れているのだと最近は自覚してもいる
幹を忘れ
枝葉を思い出しているのは
これは一種の防衛反応なのだと
不思議に思う
都合のいいことだけ思い出すということかもしれない