世にふるもさらに時雨の宿りかな
年をとっても旅から旅への私に無情の雨だという
宗祇は81才で箱根湯本で亡くなったそうだ。
芭蕉から以降のわびさびに時雨は似つかわしいもの
しぐるるや死なないでゐる 山頭火
うしろすがたのしぐれてゆくか 山頭火
後姿の我を絵に見る時雨かな
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古典に戻ると
たつた川もみぢばながる神なびのみむろの山に時雨ふるらし
竜田川に紅葉が流れているのは上流の三室の山に時雨が降っているからだろう
竜田川錦をりかく神な月しぐれの雨をたてぬきにして
川が錦織なし、時雨は縦糸だという
一人寝る人の聞かくに神な月にはかにも降る初時雨かな
独り寝に初時雨とは実際寒い
音にさえ袂をぬらす時雨かな真木の板屋の夜半の寝覚めに
昔の人はよく我慢したものだ
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神無月(陰暦の十月)は冬のはじめの月であり、時雨の枕詞のように結びつけて詠まれることが多い。王朝和歌の世界では、時雨は木の葉を紅葉させたり散らしたりする、物寂しい雨と考えられていた。そして木の葉が移ろい散ることは、人の心の移ろいや心変わりを表すものと考えられた。
心は変わる。
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しかしながら心の全部が変わるわけもないだろう。
心の中の変わらない部分で人を愛することができれば
変わらない愛になるはずだ。