俵万智「あなたと読む恋の歌百首」p120

古い本の中にしおり。
そのページの一首は、

幾人にも愛を分かつと言ひきりし彼の時の君を憎み得ざりき

三国玲子
玲子という名前は、いい名前である。

本文から抜粋すると、

「何人に愛を分け与えようと、君への愛が減るわけじゃない」
しかし彼女は憎まなかった。憎めなかった。「憎み得ざりき」が深いところだ。
いっそ憎んでしまえれば、楽になる。しかしそうはできない。
むしろ、競争から脱落しないように、一層ひたむきになってしまったりする。

「つまらない男を独占するより、素敵な男を共有していた方がいいよね」
こう自分に言い聞かせていた。

こういう男は相手が幾人もいることを隠さない。
「俺は、こういう男だ。こういう男にほれるかどうかは、お前が決めることだ。」

「彼のときの君」と書いてあることで、過去の恋であることを強調したいのかもしれない。

自分の体験談を書いてものすごく恥ずかしくなった。
振りかえってみると、ほんとうにバカである。

*****
こういう男がいて、こういう女がいて、
そういう風景は異様でもないし、落ち着きがある。

むしろ現代風の、落ち着かない性格障害的な男女の風景に比較すれば、
アルプスの少女ハイジのように、健康である。
いや、それは健康というよりは、
ハイジとペーターとクララの
無意識のぬかるみが広がっているというべきか。

そうしてみれば、この風景は
ハイジよりもなお健康である。

*****
思うのだが、この男の思いは、愛ではなく、単なる付き合いであったようだ。
それぞれの女はすべてをかけていたかもしれない。
そうならば女たちは幸せである。
この男はすべてをかけることもなく、
要するに愛に至らないまま、幼形のまま成熟している。

母と祖母とおばと姉と、それぞれの愛を獲得しながら、
本当に人を愛する愛を知らないまま、大きくなった。
それだけの、悲しい男である。

*****
恋愛に燃えて事態を拗らせるよりも、
このようにさらりとしてくれていれば、
幸いというものだろうか。

*****
一人の人をいつまでも思っていれば、報われることも多い。
だから、じっと待っているのもいいことだ。

*****
幾人にも愛を分かつ
こういう時点で、すでに、愛という言葉の意味がずれていると感じる。
これは、わたしの定義している愛ではない。

*****
わたしはたった一人の人と、愛を育てたい。
株を30年くらい持ち続けるように、
いいときも悪いときもあるが、持ち続けて、いきたい。
歴史を刻み、お互いを教育しあいたい。
二人の間に歴史が刻まれていくということが本質的に重要だと思う。
たった一度の人生をどのように生きるか、誰と生きるか、それはとても本質的なことだ。
私は自分がまだこれからも変わることができると信じているし、
もう少しよいものになると信じている。