表現と内心

中身がなくても表現だけはある人もいるし
反対に
中身があっても表現が乏しい人もいる

中身がなくて表現が乏しいのか
判別する必要がある

表現が乏しいと言えば
私の場合でも
楽器は弾けないし歌もまずいし
絵を描いてもうまくは描けないしというわけで
その点では歌心も絵心もない人なのだと判断されてしまいそうである。

でも私なりには絵がいいとか音楽がいいとかは思うわけで
内心の活動がゼロというわけではない。

言葉が少なくても、表情が少なくても、内省を働かせていることはいるもので、
何かの機会に、そんなことを思っていたのかと驚くことがある。

こちらの引き出し方が下手だったということもあり、
また、いずれにしてもその表現に行き着くまでに時間を要するということだったのかもしれないが

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表現を控えているという場合、
表現してはいけない内容であることもある。
よほど信用しない限りは内心を出さない
それを見た時には驚きすぎてもいけないし驚かないのもいけないし
なかなか難しい

やっと表現したものが
なにかのダークな感じのアニメに影響されていたり
自殺サイトで見つけた表現だったりすると
そのあたりの影響が大きいのかと思い
この人の孤独は深いと思う

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絵を感じるけれども絵を描けないことについては納得してもらえるとして
何か考えているけれども言葉にできないことはなかなか納得してもらえない

言葉のない思考が成立するものだろうかという疑問になる

もちろん言葉にならない思考はあるもので
それは言葉で他人に伝えることは難しい

むしろ言葉というものは他人と共有する公共の経路みたいなもので
非常にプライベートな思考になじむのかという問題はいつもある

なぜ公共の言葉で
プライベートな思考をするのか

これは言葉の公共性を重く見れば
プライベートな思考はないのだということになり

プライベートな思考を重く見れば
いったんは公共の言葉を学びながらもプライベートに使っているのだともいえる

心が痛い
と言ったとして、それはその人の内面でどのような意味、色、イメージを伴っているのか、
内的意味のシステム、内的イメージシステムに即して考えなければならない

判断する側のイメージシステムがすべてではないのだから