平安朝和歌について
重大な指摘がある。
大野晋が丸谷才一に伝えたというのだが、
古代人は恋愛を、
楽しいものとしてではなく、
苦しいものとして把握していた。
それゆゑ、その苦しさ、切なさから、
何とかして逃れることができたらいいのにと夢想した。
王朝和歌には恋の喜びを主題にしたものは少なく、
恋の悲しみだけが繰り返し繰り返し嘆かれている。
それって、全然気がつきませんでした。
そんなにも基本的で大事なことなのに。
だから出家したり、
髪を剃ってしまったりするんだな。
平安人は変だね、
黒髪をちらっと見ただけで興奮したり、
恋は苦しいものと認知したり。
現代では、
黒い瞳に黒い髪はエキゾチックで、
ジャパンやバンコックでの楽しみだ。
本当にドキドキなのは
ブロンドに透き通る瞳だろう。
これも変。
性的交渉はそれ自体スポーツのようなものになっていて、
それもまた変。
豊かになり、体力が有り余り、一方で心理的ストレスが蓄積しているという状況で発生するのだろう。
でも、そんな状況での恋は、本当の恋ではないな。
衝動的に買い物をしたり、そんな行動と同じだ。
ただ一つの愛を深く深く育てる。
わたしはそれが愛だし恋だと思う。
だから、17歳に出会った人と続けるのが一番いい。
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ところで、「あなたの恋は苦しいですか」と質問すれば、
恋というからには多分苦しいと答える人の方が多いのではないか。
結婚して家族がいれば、
住宅ローンと子育てローンで男も女も何も考えられないだろう。
「楽しい恋」は多分、短期間、夢想の中にしか存在しない。
頭の悪い性欲亢進した女が楽しい恋などと思うのだろう。
恋はピークを楽しむものだから、
苦いのである。