世界に諸宗教がある。
また、ひとつの宗教も、時代により、地域により、
少しずつ変化して、人々に信仰されている。
これら諸宗教を比較して論じる立場があり、
その中で、諸宗教は、道は違うが、同じまたは似た地点を目指しているのだとする
立場があり、宗教的多元主義と呼んでいる。
たとえば、一神教の系列のものと、多神教の系列のものはそもそも、違うわけで妥協はないし、
一神教同士としても、妥協の余地はないと、とりあえずは言える。
しかし、その先に、対話の余地はないだろうかと考える立場である。
John Hick が有名で、
God Has Many Names, 1982(邦訳:間瀬啓允訳、『神は多くの名前をもつ:新しい宗教的多元論』、岩波書店、1986年
A Christian Theology of Religions: The Rainbow of Faith, 1995(間瀬啓允訳、『宗教がつくる虹』、岩波書店、1997年
などの本がある。
たくさん本を書いている人で、翻訳書を何冊か読んでみても、
本格的な宗教的論考となるにしたがって、
キリスト教的瑣末主義(ごめんなさい!)に傾くような印象を受ける。
そんな中では、岩波書店から出版され、とっくに絶版になっている、
上記二冊はとてもよくて、まさに私の抱いているイメージを
ジャスト言葉にしてくれたという感じなのである。
富士山に登るとき、いろいろな上り口がある。
しかし、頂上に至れば、見える景色は同じである。
宗教もそれと同じ。
途中経過は様々であるが、
最終的に行き着く「真理」または「神」または「唯一者」「絶対者」「真の実在」、
名前はなんでもいいが、とにかく「それ」は、
同じようなものであると考える。
もちろんヒック先生はキリスト者なのだから、その立場で、
他宗教にも同様の敬意を払うといった姿勢である。
私などは生まれながらのキリスト者でもなく、
周囲にいたのは非本格的仏教者と非本格的キリスト者であって、
また、唯物論者としても非本格的な人たちであった。
しかしそのような人たちが、人間としてどうかといえば、
実に立派な人も多かった。
そのような背景を持ったものからみれば、
ヒック先生の言う、宗教的多元主義は、まことに納得できるものである。
それぞれの宗教で、強調点は異なり、表現の仕方も異なる。
しかし、大切なことは、共通する部分も多いのではないか。
あるいは、教えの内容をどの程度抽象化して受け取るかということなのかもしれない。
仏教とか儒教とかも、時代によって、地域によって、かなり変質している。
キリスト教も。原始キリスト教からローマカトリックと異端、プロテスタント諸派、
さらに現代では、アメリカ式にマスコミと結合した形態のものから、
南米のように、マルクス主義と結合した形態のものまで。
まず、キリスト教の内部で、歴史をたどることによって、
変化した部分と変化しない部分を考えることが出来る。
変化した部分は当然文明の発展過程と対応する部分があるだろう。
変化しない部分は、まさにキリスト教の核心部分が含まれると考えられるだろう。
しかしまた、変化する部分は、変化するから表層的であると断定するわけにはいかない。
変化しつつも、維持されるものであれば、
宗教に本質的か、人間に本質的かは問題があるとしても、
いずれにしても、変化の中に本質があるかもしれない。
その議論は、どの程度の抽象度で事象をとらえるかによるだろう。