問題
社会と他人を狡くて冷酷で抜け目のないものと感じている人がいたとする
そんな体験が一度か二度あって
その後はそれが判断の基準になっているというならば
一種のかなり拡張したマイルドなPTSDのようなもので
いろいろと経験していくうちにだんだん変化していくだろう
一度か二度ならば不運ということもある
しかしそれがほとんどいつも不運で他人は冷たく社会は残酷と認識しているのなら
すこし立ち止まって考えたらどうだろう
大多数の人にとって人間社会は悪いところもあるけれど
おおむねいいところだと感じられているのではないだろうか
だいたいは半々くらいでしょうくらい
それなのにその人は人生の大半が暗く厳しい経験だと感じているとしたら
それはなぜなのだろう
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答え
ある人は話しているとだいたい相手を怒らせてしまうとする
その人にとって他人とはすぐに怒るもので仕方のないものだということになる
そう思った時点で不必要に怒らせないように配慮してもいい
そうすれば他人はあまり怒らないようになる
しかしそれに気付かず他人の問題だと思っている限りは
やはり他人が怒りやすいとその人には映ってしまう
でも正解はその人が他人を怒らせる要素を持っているからである
だから他人はいつも怒っているように見えるのであって
それは世界の性質ではなくて本人の性質なのだ
偶然があまりにも続くようなら
何かカラクリがないかと考えてみてしかるべきだ
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考察
代表的なメカニズムは家庭の中にある
たとえば父親が、他人をいつも挑発して最悪の結果をもたらす、そんな性格だったとする
そんな人が家に一人いると全員がかなり困る
子どもは人間とはあるいは男性とはこんなものかと思って育つ
たとえば学校でもそのようなバイアスを持って他人と接するので
小さな兆候を見つけては「ああやっぱり、人間はだめな生き物だ」と確信を強めるようになる
このような人の相手をすることになると
曲解される
なぜそんな風に解釈するのかなと思うくらい
不思議に悪い方に解釈する
ポリアンナの逆をやっている
「悪い可能性探し」に躍起になる
そのような状況では周囲の人たちも疲れるし
ついついその人の張っている心の網にすくい取られてしまう
そしてその人の確信はまたしても実現し
ああやっぱり人間は卑劣で私を傷つける存在だと感じてしまう
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自分を変えたらどうなるか
このタイプの人は原理的に言って、自分を変えれば世界が変わるのだから
もったいないと言えばもったいないのだ
しかし誰もこんな事は恐ろしくて助言できない
そして時間が経って人生は終わる
たいていは子どもの中にネガティブな構えの心を持ったものがいて
立派に相続しているものだ
読書や映画で気がつくこともあるだろうが
やはりなんと言っても現実の生の人間がお手本になって
その人に染みついたネガティブな構えを解除してくれるのがいい
じっと待っていればそんな人もきっといるはずなのだ
そんなクリスマスプレゼントもあると思う
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あまりにもネガティブな構えが強いと周囲の人も不幸になる
不幸に不機嫌になってゆく人々を見て、また確信を補強する
この悪いフィードバックを教会の鐘が打ち消してくれますように