今日、月曜日、朝はしっとりとした空気で、
春のなまめかしさを感じながら通勤いたしました。
染井吉野は終わりましたが、里桜はさかんに花を咲かせ、
チューリップなど春の花がさまざまに豊かな色を見せてくれます。
ツツジはくっきりと激しい色を見せて咲き始めています。
主役は交代して行くのですね。
ホテルの大会場ではいろいろな研究会も開催されます。
先日通りかかった時も、私がむかし籍を置いていた業界の研究会のようでした。
私はそれをすっかり昔の風景として眺め、
多分魂が生まれかわったとしたらこんな風に
昔を見たり思ったりするのだろうと思いました。
生きたままで意識の上ではこのように
生まれ変わりにも似たような経験をしている、
それは一面では不幸なことで、かなりのエネルギーを必要とすることですが、
他面ではこうした不連続を経験するというのは
貴重といえば貴重な経験であると思っています。
こうした不連続はひょっとしたら
誰の心にも規模の大きさは違うが起こっているのではないか?
規模というのが正確でないなら、
現実生活をどれだけ巻き込むかの違いはあったとしても、
本質的には同じ質の体験を誰もがしているのではないか。
歳を取ること、可能性を試みて、一部実現し、一部実現せず、
そのようにして過去の可能性を捨てること、
なじんできたいろいろなものに別れを告げること、
大小の喪失体験。
多分、いろいろな不連続を説明するのは、
死という不連続体験ではないか。
人間の脳は死を乗り越えることができない、
そこに第一の原理が存在している。
人生の中で不連続が生じると
脳は死の不連続という根本的なテーマを思い出してしまう。
思い出すとも投影するとも言える。
春の体験はこうした不連続体験のひとつなのだと思う。
2007-4-16