医療制度研究会 ~21世紀の医療を共に考える会~
新日本出版社・月刊『経済』 2007年1月号掲載
対談 「医師不足地域の医療が危ない!」
(出席)
本田 宏(済生会栗橋病院副院長・外科医、NPO法人・医療制度研究会副理事長)
日野 秀逸(東北大学教授)
(前文)
医師不足による病院・診療科目の廃止、地域の医療”崩壊”が大問題になっています。NHK調査(〇六年九月実施)によると、現在、全国の二二四の公立・公的病院で、廃止・休止が計画されている、としています。日本の医師不足はなぜ生れているのか。深刻な事態を変えていくために、何が必要か。本日は、医療現場の最前線におられる栗橋病院医師・本田宏さん、医療経済学がご専門の東北大学教授・日野秀逸さんに、この問題で大いに語っていただき、国民の切実な声に答えていただければと思います。〔編集部〕
勤務医の現場は、どうなっているか
日本の医師不足の実態
――本田さんは、済生会栗橋病院の外科医として働く立場から、現場の実態と医師不足の問題を訴えて、全国を講演会などで精力的に回られています。まず本田さんに、医師不足の現状からお願いできますか。
●年を追って過酷になる医療現場
【本田】 私も今日は、勤務医の窮状を生の声でぜひ聞いていただければと思っています。最近、マスコミで医師不足の問題が取り上げられていますが、それはまだ表面的ではないか、と感じます。たとえば、ある病院で医師が大量に辞めて、病院が閉鎖になった、と結果は報じられますが、なぜそうなっているか、国民の方々に正しく伝わっていないと思うのです。そこでまず、私は現役の医師として、現場の実態を知っていただきたいと思います。
私は外科医になって二八年です。一般の企業であれば、管理職の年齢で、肉体的には負担が軽くなる頃でもあると思います。しかし、地域の急性期医療の現場に身を置いていますと、年を追って仕事はきつくなるのが実態です。
その大きな理由は、医療の質の進歩です。二八年前に比べて、本当に医療技術、機器が進歩して、以前では不治だった病気が治るようになっています。胃癌にも効く薬が開発されている。つまり、医療の質の向上とともに、医師がやるべきこと、負担が多くなってきています。かつては一人の患者に関わるのに二、三の専門領域で済んだのが、今は六つ、七つもの領域に及び、医師に求められる専門性が増しています。
もう一つの要因は、高齢化社会です。今は、七、八〇代の方でも手術が増えてきています。それは高血圧、糖尿病、心筋梗塞など、多くの合併症をもつ患者が増えることにつながって、手術はとても神経を使います。
そのうえに近年では、患者側が納得するまで説明を受けるべきという「インフォームド・コンセント」が当然のように求められます。私は、ニュース解説とかで、医師に分かるまで説明を求めていい、というような話をされると、背筋が寒くなります。実際、現場ではマンパワー不足から、その要望に応えようとしたら、医師の側の負担は非常に過酷です。患者さんは、それで当然と考えますから、仕事があるから夜九時から話を聞きたい、あるいは日曜日にしてほしいと求められます。それでは、私たち医師はいつ休んだらいいのか。日本の医療のマンパワー不足、これは医師をサポートする医療者集団も含めての体制の欠如の下で、欧米の医療並みの説明を求められることは、実際は不可能なのです。
インフォームド・コンセント自体の難しさもあります。医療情報の「非対称性」が問題にされ、患者はあらゆる選択肢の情報を提供されるべきだと言われます。昔でしたら、胃潰瘍は手術で直しましたが、今は効く薬ができています。そうした治療法のあらゆる手法を、一般の方に説明するのは、実は大変難しい。それを説明しないのは医者の説明責任の問題だと言われると、どうすることもできません。医療現場の人間は、高度化、複雑化する医療技術と、患者の狭間で、非常に揺れながら、職務に当たっているのが現状です。
●医師不足で過重な労働とストレスに
今、お話ししたような医療現場の仕事量の増大に輪をかけて、決定的な原因は、日本の医師不足の問題です。人口一〇万人当たりの日本の医師数の推移を、OECD(経済協力開発機構)加盟国の平均と比べると、乖離が起こっています(図1参照)。日本の医師数は現在二六万人で、もしOECDの平均数に見合う数にするには、一二万人不足しています。しかも図を見れば分かるように、世界水準との格差が広がっているのです。
その上に各地方ごとの格差があります(図2)。ちなみに私の病院のある埼玉県は、世界的な平均より低い日本のなかでも、人口当たりの医師数は全国で最下位です。
この医師不足に、現場はどのように対応しているのか。一つは、超過勤務です。とにかく夜でも、日曜日でも、病院に患者さんを診に出ています。何か事故が起こったら大変だと、追い立てられて、常に過重勤務になっています。
加えて、一人の医師が何役も働かなくてはならないという現状です。癌の手術後の化学療法でいえば、欧米では化学療法の専門医の担当ですが、胃癌学会のアンケートによると、日本ではその約七割が外科医です。さらに、癌患者さんが再発したり、お亡くなりになるまでの緩和ケアまで、約六割は外科医が担当しているのです。
よく日本の外科医は効率的でないと言われますが、患者さんを他に担当してもらえる体制がないのが実態です。そうすると一人で診断から手術、その後の化学治療、ターミナルケアと、何役もこなすことになります。当然、それだけ広い知識も、時間も求められるわけです。
あるいは、医師不足を解消するために、「病院の外来部門をなくせば、仕事量が減る」という意見もあります。しかし、これは現場の実態を理解していない意見です。化学療法の外来部門などは、病院以外で、地域の開業医に替わってもらうことができない部門なのです。
なぜ外科医が手術だけで終われないかを、もう少し補足しますと、一人の患者さんの手術を担当すると、担当医への患者の依存度は非常に強まります。私はこの先生に、化学治療も、再発時も、最後の見取りまでやってもらうのだと、ものすごい精神的依存関係が生れます。
それが高じた例で、私の病院で事件が起こりました。ある悪性疾患の患者さんの死亡宣告時に、主治医が三〇分、間に合わなかったために、「土下座しろ」とご家族から迫られたという話です。日曜日でしたが、その担当医は非番でも、夕方まで治療に当たり、一度帰宅した後、容態が悪化したのです。急いで駆け付たら、「土下座しろ」という家族からの心無い叱責を受けた。懸命にやってきた担当医には、とても理不尽な仕打ちではないでしょうか。
今、急性期病院の現場にいる勤務医は、そうした過重労働、一人何役のストレスのなかで、ボロボロになって働いています。それが、なかなか患者さん、ご家族の方には伝わっていません。手をつくしても、最後に立ち会えないと、家族からは叱責される。本当につらい状態です。虎ノ門病院の小松秀樹氏が『医療崩壊 「立ち去り型サボタージュ」とは何か』(朝日新聞社)で述べられているように、そういう状態に耐えられず、勤務医を辞めて、開業医に変わる医師が生まれています。私は、そうした医師を責めることはできないと思います。ですから、この実態をまず、多くの患者、国民のみなさんに知ってもらう。それが事態の打開のために、何より必要だと痛感しています。
――では本田さんのお話を受け、日野さんお願いします。
●医学・医療の進歩によって仕事量は増える
【日野】 最初に、本田さんからお話のあった医療現場の状態について、医療政策論を専攻して三〇年ほど取り組んできた立場からお話ししたいと思います。
一般に、学問や技術の進歩とは、それに携わっている人間の負担を軽くするはずです。五〇人、一〇〇人の仕事を、一人でできるようになるのが技術発展です。ところが、医療だけでなく、教育、福祉分野といった人間を相手にした「サービス労働」の場合、技術が発展するほど、逆に人間の手が多くかかるようになる本質を持っています。
医療技術が進歩すれば、かつては治らなかった人が治癒して、再び医師の前にやってきます。その患者の診察、治療は難しくなり、医師の負担は増すのです。加えて、かつては外科、内科ぐらいの専門区分だったのが、現在は内科関係でも消化器、肝臓、胸部、循環器など細かく専門化されています。するとそれに応じて医師を増やさない限り、同じ専門の医者は少なくなり、仕事量は増えます。この医学、医療技術が進むと、逆に全体の仕事量が増える関係が、一般に理解されていないために、医師、患者・国民のギャップが大きくなっているわけです。
別の面から言うと、江戸時代に自動車に乗りたいと考えた人はいません。ところが医療に関しては、病気を治してほしい、死にたくない、という要求は江戸時代から変わりません。その死にたくないという、不可能な要求に対して、時代を超えて応えているのが医学・医療の発展であり、そこに特殊な性質、原理が存在します。技術が進めば、もっとよくなる、速く効率的になるという、自動車や鉄をつくる工業とは、まったく違う原理で医学・医療は発展していく。この関係をもっと広く理解してもらう必要があります。
さらに社会的条件の変化です。高齢化社会は世界的な傾向ですが、これ自体、おめでたいことであり、医学も大いに貢献してきました。他方、それは多くの病気を持ち、体力の低い高齢者が、手術を受ける状態が広がったことでもあります。高齢化という社会的条件の変化が、医師や看護師の手をたくさん必要とする状況を作り出しています。
治ること、長生きすることは確かに望ましいことです。それに医療の側で対応するためには、その原理からいって、人手を増やすしか手段はありません。にもかかわらず、日本では逆に医師を減らしてきた。この政策的な大失敗が、今日の医師不足から医療現場で起こっている事態の大本にある問題です。
医師不足を補うために、病院外来を開業医に任せればいい、産婦人科医師の仕事を助産師に任せればいい、という議論も出ていますが、医療のこの原理的部分が乱暴に扱われてはならないと思います。きちんと医師の計画的な増員を図った上で、勤務医と開業医、助産師など、連携を工夫しいていくことが必要ですね。
【本田】 まったく、おっしゃるとおりだと思います。
●日本の医師数は中進国、経済困難国並み
【日野】 次に、国際水準から見た日本の医師不足の現状についてです。OECD各国の医師の増え方の指標から見ても、長期的、傾向的に乖離をしているのが、日本の特徴です。医療技術の進歩、社会的条件の変貌という環境変化に対応して、世界の流れは医師数を充実しているのです。日本は逆に政府が医師減らしをやってきた結果、一人の医師が何役も、という実態、医師の過酷な状態を生んでいます。
本田さんが言われた、医師数不足の一二万人という数字について、私はこのように計算しています。OECDの臨床医調査(*)によれば(OECD Health Data 2006)、加盟国の人口一〇〇〇人当たり臨床医師数の平均は三・〇人(日本以外の加盟二九ヵ国のデータが出そろう二〇〇三年の平均)に対し、日本は二・〇人です(日本の「医師・歯科医師・薬剤師調査」は隔年に行われ、二〇〇四年のデータ)。
ここから日本が加盟国の水準に達するには、約一三万人の医師数増加が必要です。つまり、二〇〇三年の日本の人口一二七六一九(千人:A)、人口一〇〇〇人当たりの臨床医数がOECD三・〇(B)、日本が二・〇(C)。A×B=三八万二八五七人(D)、A×C=二五万五二三八人(E)。D―E=一二万七六一九人。日本の人口当たり臨床医師数がOECD三〇ヵ国の平均に追いつくためだけでも、一二・七万人ほど増やさなければならないのです。
*臨床医は病院と診療所に勤務する医師。診療現場における医師不足を論じるには、医師総数よりも臨床医をとりあげる方が正確である。「医師総数」にすれば少し数値は変わってくるが、大勢には影響しない〔日野注〕。
別の数字を紹介しますと、〇六年八月に出された厚生労働省の「医師の需給に関する検討会」の報告書では、「休憩時間や自己研修、研究といった時間も含む医療施設に滞在する時間を全て勤務時間と考え、これを週四八時間までに短縮する」ためには、六・一万人が不足している、という推計をしています。ただし、この数字について報告書では、休憩時間や自己研修を含めた時間すべてを「勤務時間」と考えるのは「適切ではない」と、退けられており、大きな問題ですが。
またWHO(世界保健機関)の『ワールド・ヘルス・リポート二〇〇六』の付録「加盟国における保健労働者の国際比較」でも、はっきり出ています。一九二ヵ国、二〇〇二年の比較で、医師数でいうと日本は人口一〇万人あたり一九八人で、世界第六七位です。北欧諸国では、デンマーク二九三人、フィンランド三一六人、ノルウェー三一三人と、だいたい三〇〇人台。ヨーロッパの国では、イギリスは二三〇人と低い方で、フランス三三七人、イタリア四二〇人、ドイツ三三七人、スペインが三三〇人、ロシア四二五人、スイス三六一人、オーストリア二四七人です。
この国際的な水準からみても、日本は人口一〇万人当たり、一〇〇人以上少ないわけです。世界六七番目というと、経済困難国並み、せいぜい中進国の下の方の水準です。ちなみに、この国際比較で歯科医師は二六位、看護師は二七位ですから、医師数がとりわけ低いのです。
この日本の医師数のレベルをはっきり認識して、対策に当たる必要があります。それは、医者の数を全国の地域で配置し直すとか、専門科目の間で回し合うとか、そいう小手先の手当てで解消できる数でないことは明らかです。
【本田】 その点で私が注目したのは、「医師の需給に関する検討会」の第三回(〇五年三月一一日)の議論の中で、メンバーの長谷川敏彦・国立保健医療科学院政策科学部長が報告された内容です。長谷川氏は、医師需給についての国際的な議論を調査した結果、その論調が最近ガラッと変わっていて、「大変驚いた」と言っています。以前は、国の医療費を抑制するために、どう手を打つかが世界の趨勢だった。しかし、この数年は、医療の質と安全を確保するためには、必要な医師の数、医療費をかけないといけない、という時代になったと報告しています。
●医師数は「偏在」でなく、絶対的不足
――医師不足は、都市と地方における医師の「偏在」が問題であり、合わせて、産婦人科、小児科の医師不足も、特定の科目に集中している問題だという見解がありますが。
【本田】 医師不足でなく、「偏在」だという議論が、現実を見ていないと思えるのは、じゃあ余っている医者はどこにいるのか、ということです。人口当たりの医師数が一番多い、東京でも余っていない。全国すべての県で、OECD平均を満たしている地域はどこにもないのです(図2参照)。
【日野】 そこは大事なポイントです。まず日本の医師数総数が絶対的水準を満たしていないのです。およそ先進国とは言えない、”異常”と言えるほどに少ない。その上に、地域的なバラつきが出て、二重に大変になっている。地域的には、北東北の医師不足が深刻ですね。さらに専門科別の偏在があり、産婦人科、小児科など、とくに不足が出ている科目では、三重苦という状態がひどくなっている。
【本田】 その絶対数の不足という認識が、政府、厚労省にないのが問題です。「偏在」と言い張る議論というのは、どうも私には、戦前の日本軍で「撤退」と言わずに「転進」だと報道した、あの言い方と似ている気がしてなりません。
それで結局、不幸になるのは国民です。「ビジネス・ホテル」に「高級ホテル」のサービスを求める人はいません。それなのに国民は、実態を知らず「高級ホテル」のような医療を求めて無理な要求をしてしまう。政府自らが「偏在」と言って、現実を誤った説明をするから、患者が対応を間違ってしまうわけです。
今、日野さんが医者の二重苦、三重苦といわれましたが、この絶対数の不足を補っているのは、日本の医師の過重労働です。国立公衆衛生研究所のデータでは、医師の一週間の労働時間を調べると、イギリス、ドイツ、フランスは、二〇代から六〇代の医師まで週六〇時間以上勤務している国はありません。ところが日本では、二〇代~五九歳まで、すべての年代の医師が週六〇時間以上勤務しているんです。
しかも六〇歳代から、七〇、八〇歳代まで、医師統計の数にカウントされているのは、世界で日本だけです。日本では、医者は死ぬまで働かなくてはならない、と考えられているわけです。
【日野】 EU(欧州連合)やOECDの医師の場合、週四八時間労働が上限です。イギリスだけが、人手不足で例外的に週五六時間になっている。週六〇時間勤務なんて国はありません。日本もせめて週四八時間を上限にして基本的診療を完了する。それに見合った人的な体制にするには、何人必要か、という点で補強が求められます。
●日本の医師統計の大雑把さ
【本田】 日野さんが言われたように、現在の医療は専門科目ごとに細分化されていますから、たとえば乳癌になったら、その専門医のところで治療したいと誰もが思っています。外科医だったら、誰でもいいと考える人はいません。そういう国民が望んでいる医療レベルにするために、どの科目の専門医がこの地域に何人必要か、という基準も必要です。
先ほどの長谷川敏彦氏の報告に出てきますが、アメリカの統計では、二〇〇〇年ぐらいに医師数はガクッと下がり、人口一〇〇〇人当たり、二・二一人になりました。私もなぜなのか、と思って統計を調べましたら、アメリカは医師のカウントを厳密に修正してデータを出すようになったのです。「フルタイム・エクイバレント(equivalent)」と言って、退職者、休職者を除くことはもちろん、本当に実働している医師の頭数としてカウントしています。
一方、日本の医師数統計は、先ほど言いましたように、相当、大雑把なカウントになっています。ある東北の病院の名誉院長の言葉では、「日本における医師数とは、医師免許を持っていて、死んでいない者の数」だと言っています。本当は、病院の医師数登録数から、産休でお休み中の数は除外しなければいけない。そういう「実働」数で統計をとっていない。こういう数字でで日本の医師数が不足か、足りているか、と政府が判断してみても、机上の空論に終わってしまうわけです。
それに大事な点ですのでつけ加えますと、医師の教育の時間の確保です。イギリスでの話を聞きますと、医師の生涯教育は平日勤務時間内に行うシステムになっているそうです。しかし日本の医師は、一方で過密な診療スケジュールがあり、土日や診療が終了した夕方以降の時間を使って学会、研究会などで勉強しているのです。現在、医師免許更新制度を導入する計画も出ていますが、医師に勉強の時間を与えないで、やろうとしています。国民も医師の質向上を望んでいるのですから、医師が新しい医療技術を身につける研修・学習の時間は、勤務時間に含めないとおかしいはずです。
――〇四年度から研修制度が始まり、医学部を卒業後、二年間は義務的に臨床研修が義務付けられました。この制度で、大学病院の医局に若手医師が残らなくなり、地域の病院への派遣ができなくなったと言われますが。
【日野】 一昨年、新しい研修医制度によって、それまで六~七割、大学の医局に残っていた医者の卵が、難しい症例が集中し一般的な疾患の研修がしにくい大学病院での研修を避け、市中病院に流れ、二~三割しか残らなくなりました。それで、派遣していた中堅医師を大学病院に呼び寄せたため、自治体病院を初め、一気に医師不足が表面化しました。
先ほども指摘したように、こうした問題が現れる前提には、絶対的な医師数不足があり、それが研修制度で噴出したものだと考えます。
【本田】 これは一方で、いかに行政が医師の絶対数不足に危機感を持っていなかったかを証明したものだと言えますね。
●インフォームド・コンセントと医療の不確実性
――これまでのお話のように、日本の医師不足から来る勤務医の実態の深刻さを踏まえた上で、患者側としての医療現場への対応を考えていくことが必要です。
【日野】 インフォームド・コンセントの問題は、本田さんが冒頭おっしゃったとおりで、その重要性は誰も否定しません。しかし、それを保証できる体制が、診療報酬の点からも、説明に当たる人的スタッフの面からも備わっていないことが問題です。にもかかわらず、説明責任は、一方的に医療機関の側にかかってくれば、医療機関の側は萎縮して、後で患者との間で問題が起きないように、予防的に一通り説明するけれど、患者には何が大事かのか理解できない、という状況になっているケースが多いのではないでしょうか。
【本田】 医療技術の進歩と関係しますが、医療には不確実性と限界があるということが、だんだん一般の方々に意識されにくくなっています。患者の側は、病院にいけばすぐ診断がついて、治療したら治って当たり前、治らないのは、医者の腕が悪いかのように受け止められます。ですから一旦、症状に問題があらわれると、患者から、直ちに医療ミスではないか、医療事故ではないかと疑われる傾向が、医療従事者にすごいプレッシャーを与えています。
【日野】 「医療における不確実性」の問題については、すでに七〇年代、大阪大学医学部の大先輩である中川米蔵さんが、『医療的認識の探究』(一九七四年、医療図書出版)という本で論じられています。「不確実性」は医療における認識の特徴であり、因果関係と結果が一致しない状況でも決断が迫られる領域なのであり、常に不安定性と危険性をはらんでいる。その点に対し医師の側は謙虚でなければならないし、患者の側は過大な期待を避けなければならない。そういう論旨です。
その点が、医療・医学の目覚しい発展の反面、何でも治る、それが当たり前という誤解が広まっているのではないか。そこでは、医療関係者も、患者もあらためて襟を正して、正確に現実に向き合うことが求められていると思います。
分娩にしても、依然として危険が伴うもので、緊張感をもって臨まなければならないはずです。「母子ともに健康」で出産が当たり前、という安易な受け止めは戒めなければいけないし、医療の不確実性、限界性について理性的な国民的認識が求められるでしょう。
医師不足、医療体制の不十分さの問題と、医学・医療の発展の下でもなお、医療には不確実性があるという問題を、よく踏まえて当たらないと、医者も患者もお互いが不幸にな状況に陥るばかりです。
●医師、医療従事者に対する暴力は重大
【本田】 最初に紹介したような、家族から心無い叱責や罵倒を受けた医師、看護師、スタッフへの影響は大きいです。一度、そうした場面に出会うと、患者、家族との問題が起らないか、トラウマ(精神的外傷)になって、退職を考えるところまで追い詰められる人も現実に出ています。
【日野】 イギリスは医療制度崩壊の先進国として、医師、看護師に対する暴力の問題があります。年間に九万五〇〇〇件以上(二〇〇一年、イングランド)というレベルです。日本より少ない人口五〇〇〇万人の国でこれだけ起きており、その中には、殴られるなど直接の暴力のほかに、言葉による暴力も含まれています。
「土下座しろ」というような言葉の暴力も含めて、医者・看護師に対する暴力に起因する退職というのは、まだ日本では統計に現れていません。しかし、イギリスの状況に、日本も近づいているかもしれません。
人手不足は、患者と医療専門家、医師との関係を壊す要因につながりますから、その面からも医療崩壊につながる要素になります。
【本田】 最近も、救急疾患で入院してきた患者さんの家族から、なんでもっと早く発見し、治療しなかったのか、医療ミスではないか、と言われたこともありました。二八年間、外科医をやっている私でも、非常に嫌な思いをすることがありますから、まして若手の医師、看護師には、本当に影響は大きいのです。
中には医療費が不払いになるケースもあります。医療機関としては、裁判という手段をとらざるを得ない場合もあるでしょうが、患者家族との訴訟はそれでなくても忙しい現場で新たにストレスを発生させるもので、できるだけやりたくはありません。そのための第三者機関を設ける制度も必要だと思いますから、何とか整備してほしいものです。
【日野】 〇六年三月、福島県で女性が、不幸にも出産時に死亡した医療事故で、執刀した医師が業務上過失致死と医師法違反容疑で逮捕、起訴されました。医療トラブルの事後ルールとしては、医師個人が悪意でやったことでなければ、医師が逮捕されないことが必要です。また被害にあった患者さんを救済のための公的制度を整備することです。
スウェーデンには「信頼促進委員会」がおかれていますが、患者側と医療従事者の信頼を促進するスタンスで、事実の解明と責任の所在を判定し、医療側の悪質な過誤には懲戒を勧告する、公的な第三者機関です。医療従事者個人を叩くのではなく、患者との共通理解を広げていくシステムづくりを日本でも急ぐ必要があるでしょう。
日本の医師不足はいかにつくられたか
「医療費亡国論」・医療行政の責任
――勤務医の現場、医療の現場の問題が、浮き彫りになってきました。その根底にあるのが医師不足です。では今日の医師不足という事態がなぜ起こってきたのか、その原因についてどうでしょうか。
●「医療亡国論」による医師数抑制政策
【本田】 私は、日本の医師不足の理由を、政府の経済優先政策の結果だと考えています。
戦後、一九六一年に国民皆保険制度が実現しますが、社会保障費は一貫して抑制されてきました。医師数について目標とされたのは、一九六九年に出された自民党の医療基本問題調査会「国民医療対策大綱」の中で、「必要最低限の医師数を八五年頃までに養成し、人口一〇万人当たり一五〇人」としました。ここにも初めから、医者は「必要最低限」の数でいいと書いてあるのです。
その後の日本の医師数の推移グラフ(図1参照)を見ると、一九七三年に「医科大学構想」が始まり、医師数が増員し始めます。そしてこの人口一〇万当たり一五〇人が達成されつつあった。一九八三年、当時の厚生省保険局長、吉村仁氏による「医療費をめぐる情勢と対応に関する私の考え方」という論文が発表されました(『社会保険旬報』掲載)。そこでは、このまま租税・社会保障負担が増大すれば、日本の経済発展の妨げになる、という「医療費亡国論」を展開しています。
加えて、医療技術をいくら発展させても限界があり、予防が重要だという「医療費効率逓減論」や、将来、日本の医療体制は過剰になるという論も述べられています。つまり、今日の生活習慣病対策など、厚労省の医療政策の枠組みがこの中に含まれて、それ以来、日本の医師数を減らしていく方向へ転換が始められました。
一九八三年、日本の人口当たり医師数が一五〇人を超えましたが、その同時期のOECDの医師数平均の伸びでは、すでに二二〇人ほどになっています。つまりいかに日本の行政が、世界の趨勢を見ずに、自分たちの頭の中で決めた目標のみに医師数を抑制しようとしていたことに、本当に唖然としました。
そして、それ以降も、日本の医療行政は、世界の動向を見ていないわけです。というのは、一九九八年まで一貫して、医師数は抑制する政策を、閣議決定までして実行してきたのです。
この歴史が、今の医師不足の直接的な原因をつくっているわけです。しかも現在でも、私が世界の水準から医師数がこんなに少ないと話すと、日本は世界と違う、OECD水準と比べても仕方がないと真面目にいう人がいます。これだけ世界を無視した立場はないわけで、少なくても、世界の医療の趨勢、動きをきちんと踏まえた上で、発言すべきでしょう。
●先に「閣議決定」ありきの数字合わせ
【日野】 本田さんが言われたように、出発点は、一九六九年、人口一〇万人当たりの医師数一五〇を目標と決めたことです。
そして一九八二年の行革「臨調」の基本答申を受けて、閣議決定した「行革大綱」において、「将来の供給過剰を防ぐ」と医師数抑制を決定しました。医師数に応じて医療費は増加する、というこじつけの理屈で、文科省の大学設置基準でも医学部の定員増を認めていまぜん。
その翌年八三年に、本田さんが言われた吉村局長による「医療費亡国論」論文が出されます。つまり、これは閣議決定の忠実な実行なのです。私は当時、国立公衆衛生院にいたのですが、この医師抑制政策に対し反対の論陣を張りました。たとえば一九八三年、真正面から「『医療費亡国論』を斬る」という論文を書き、その後、本にもしています。これに対し、当時、厚生省側から、私への直接の圧力もありました。
【本田】 そうでしたか。その話は初めてお聞きました。吉村氏の「医療費亡国論」の前年、一九八二年に閣議決定があったのですね。
【日野】 そしてやはり閣議決定を受けてつくられた「将来の医師需給に関する検討委員会」(一九八四年)が、八六年に最終意見を出します。それによると二〇二五年に医師過剰になるので、当面、一九九五年までに「医師の新規参入を最小限一〇%程度削減」することが書き込まれました。その結果、一九八七年から医学部定数の削減が始まり、それは現在まで続いています。
こうした日本の医師数抑制、医師養成数削減へ向かった理由は、八二年の医師数削減の閣議決定のように、基本的には医療費を抑えるために医者を増やさないという議論でしたから、医療費抑制策が先に立っています。
抑制がまだ足りないということで、一九九三年、「医師需給の見直し等に関する検討委員会」を設け、医師数を増やさないためのあの手この手を盛り込んだ報告書が出されました。
一九九七年には、橋本内閣で「医学部定数の削減に取り組む」という閣議決定がもう一回あります。
そして小泉内閣において〇五年二月から「医師の需給に関する検討会」の議論があり、〇六年七月の「報告書」では、二〇二二年に需給は均衡し、それから先のことは不確実だとしつつも、二〇二五年から二〇三〇年には、医師数が過剰になるという予測をしています。おかしいと思うのは、この二〇二五年というのは、奇しくも二〇年前、一九八六年の報告書で医師過剰になると予測したのと同じ年になっているのです。 医療の現場がめざましく変わって、医師の仕事量はべらぼうに増えているのに、二〇年前と予測が一致するというのは、大変奇妙な結論です。
しかも何で二〇二五年に過剰になるといっても、この医師数は一〇万人当たりで二六九人と推計しています。OECDの現在の平均三一〇人より低い水準で「過剰」なると言っても、まったく根拠はないものです。
【本田】 実情に即した正確なデータで議論してもらわないと、印象の数字で後二〇年したら医師が余る、という話をするのは本当に許せない話です。医療の現場を、本当に無視して検討しているとしか思えません。
【日野】 〇六年七月の「医師の需給に関する検討会」報告書では、もっと外来に患者を回して、入院の患者を減らせばいい、あるいはベッド数をもっと減らせばベッド当たりの医師数が改善する、というようなことを書いています。結局、閣議決定の「二〇二五年に過剰になる」という結論先にありきで、数字合わせの話なのです。
●「富国強経」、医療後まわしを続けるのか
【本田】 私は現在の医師不足の問題で、日本の医療の歴史を調べているうちに、興味深いことに気付きました。明治時代から、日本の政府は、先進国に追いつけ追い越せで、「富国強兵」策をとり、戦後はそれが「富国強経」、つまり経済優先になりました。ですから、日本の医療史をひもとくと、いつも国の経済が優先で、医療は常に後回しにされてきた、という歴史をみることができます。
明治の当初につくられた公立病院は、西南戦争の赤字、その他でつぶされました。ベネディクトの『菊と刀』を読んで私が衝撃的だったのは、戦争中も、日本軍ぐらい医療を粗末にした国はなかったそうですね。世界の軍隊では、敗色が濃くなると、負傷兵は先に引き上げ、厚い治療をするのが常識ですけれど、日本の軍隊ではいよいよ最後になると手榴弾を渡して自決させ、主治医が銃殺するという話もあります。ここには兵士、国民の命をいかに軽んじてきた国か、という事実に驚かざるを得ないのです。
【日野】 今言われた歴史で、戦前は「富国強兵」、あわせて「殖産興業」も掲げられていましたから、明治以降、要は軍事、経済優先の国づくりだったと思います。しかも経済優先といっても、常にアメリカの要求が上に立つ、ゆがんだ形で、社会保障、医療への優先順位は常に下にされてきた歴史があります。
イギリスの医療制度であるNHS(ナショナル・ヘルス・サービス)では、法律上、医師の養成も国が責任を負うことは明確にされています。
日本の近代史をふりかえると、中央政府が国の公的医療制度を中心に整備をしようとした時期が、二回あります。一回目は、明治の初め、自由民権運動の盛んな時期です。当時、コレラの猛威に対し、松本県(現長野県)が教育、予防を徹底して、ついに患者を出さなかった。これに学んだ時の内務省衛生局長・長与専斎が、これからは医療行政も公的な病院中心に、自治の原則で取り組みを始めたのです。しかしそれもわずかな時期で、一八八一(明治一四)年の政変で終わってしまいます。
もう一つは、戦後まもなく、アメリカの社会保障調査団が、少なくとも病院は公立を中心に整備するという答申を出しました。それで一九五〇年、社会保障制度審議会の『五〇年勧告』に盛り込まれますが、朝鮮戦争が起こり、病院をつくる国の金はないと、立ち消えになるのです。
結局、歴史上二回とも「富国強兵」で、医療がつぶされました。
そういう歴史上、二回の公的医療整備の機会を生かせず、結局、民間任せになる。それは、医療体制の最終的な責任を、民間の医療法人に押し付けることです。あるいは医師養成数にしても、医学部進学は個人の自由だと言いながら、医学生数を厚労省、文部省でコントロールする。財源は出さずに、コントロールだけはしっかりやるシステムなのです。
●国が医師数を規制している国は少ない
【本田】 今の明治期に公的医療をつぶしたのは、松方財政(※)の時で、西南戦争(一八七七年)のための支出増が響いたと聞いています。日本の政府は、経済的な「富国」優先で、医療はないがしろに考えているのだと、つくづく感じますね。
※一八八一年一〇月、松方正義が大蔵卿に就任。増税と緊財政を併し、「松方財政」と呼ばれる。
最近、『二〇〇三―〇五年 図解で見るOECD』という統計を見ました。世界的に医療サービスの量の少なさが問題になっている国として、日本、カナダ、ニュージーランドが上げられ、OECDでも政府が医師数を制限する政策をとっている国は少ないのです。もし今後も日本政府が医師数を抑制する、医学部定員を減らすのであれば、今申し上げたように、本当に必要な医師数をきちんと計算して、安全な医療体制を整え、医師に「立ち去り型サボタージュ」をさせないような環境を整える責任が国にはあるのです。国が医師数を規制していないなら、まだその責任は軽いでしょうが、医師数を削減して、医療環境を悪くしている、政府の責任は本当に重大なのです。
そういう点で、私は話す先々で、日本政府は国民のことを考えていないということを、国民の側は肝に銘じて運動に取り組むべきだと強調しているのです。ですから一番の要は、明治以来の「富国強兵」「富国強経」、医療後回しの国の成り立ちを変えることです。要は、日本国民がその覚悟をできるか、だと思います。黙っていても「お上」がちゃんとやってくれる、と思ってはならない。この「お上の国家」の価値観を転換することは、日本に本当の民主主義をつくることだと思います。
【日野】 一九八一年七月に、第二次臨時行政調査会の第一次答申の中で、医療や福祉を削る方針が出ますが、当時の日経連の大槻文平会長がなんと言ったか。「この答申が福祉切捨てだという人もいるが、私はもっと減らすべきだと思う」「福祉を減らすことによって、日本人はもっと働くようになる」という見解を出したのです。日本の財界代表の本音、資本家の本音が出ていると思います。
【本田】 先ほど、日野さんが言われました、医療技術が発展するほど、人間の手がかかる、人はむしろ増えるというのは、私たち現場にいる者には当たり前なんです。それを政府、官僚からすると、何か機械を取り替えるような話をしていると思うのです。コンビニのようにバーコードで作業するのとは訳が違う。医療は機械で手術できません。それが理解されていないのです。
日本の国民医療費は、国際的にみてかなり低く抑えられているのですが、個人の自己負担でいうと、世界最高になっているのですね。だから日本国民のみなさんは、最高の自己負担を強いられながら、世界の平均からすると、からかなり低い医療サービスしか受けていないのです。
【日野】 日本の財界トップの人たちはよく、日本はグローバル・スタンダードで世界で勝負するんだ、と言いますが、だったら、医療でも医師数でも国際水準で恥ずかしくない水準にしてほしい。トップにとは言わないが、せめて先進国の平均は確保してほしい。医療費でもGDP対比で九・五%から一〇%は出す必要があるのです。
【本田】 私は一一%は必要だと言っています。なぜなら現在の日本は世界一の高齢化社会であり、医療が世界一必要な時代だからです。本当に一番必要な時代に、医療費を削っているから、三重苦、四重苦ですよね。
現場で苦闘する医師からすると、今後、医師が増えて、若手の医師が来るかもしれないと言われると大きな気持ちの支えになります。ところが、今後も医師は増やさない、と言われてしまうと、現場では将来に対する夢も希望もなくなります。
私の同僚の女医さんも言ってましたが、もう一年経てば、若手が来るかもしれない、という状況と、もうこの先、現場はずっとこのままなんだな、というのでは、受け止め方は一八〇度変わってきます。そのためにも、日本の勤務医が少しでも精神的に楽になる、希望が持てる施策をやるという方針を、一刻も早く政府には打ち出してもらいたいですね。
●医師間の協調とマスコミの論調
【本田】 もう一つ、「医師不足」というと、いろいろな段階の問題が含まれていて、私は最近、急性期病院の「勤務医」が不足している、という言い方をしています。いかにしたら、勤務医を辞めずに、希望をもって働けるか、という点が、今後の医療を考える上でポイントです。
残念ながら医療団体でも、たとえば医師会も同じ医療費というパイを取り合う医者の数は増えない方がいい、という立場をとった時代もあると聞いています。 だから私が最近、気をつけていることは、「医師不足」を強調して、勤務医、開業医含めた、医者の中で不用な対立が生れることは避けたいと思うのです。明確に、日本の急性期医療を支える勤務医不足、と言う点を主張していくことが、国民の方々にも分かりやすいし、重要になっていると考えています。
【日野】 実は、今の点は、かなり根が深い問題があります。一九八二年の閣議決定以降、医師数抑制を決めて、国の諸施策が展開されたのですが、先ほども指摘した八六年の「医師の養成を一〇%削減する」という結論を受けて同年、文部省の医師養成協力者会議が医学部定員の削減を決めました。
このときに日本医師会では、もっと積極的に減らせという意見を出しています。歯科医師会も国民の中から、歯科医師を減らしてはいけない、という意見を出るのを恐れる、という見解です。つまり、パイの取り分を小さくしたくない、という立場からの表明だったと考えます。
もう一つ、マスコミはどういう見解だったか。八六年の医師養成削減の結論に対し、「朝日新聞」は、「最終意見に賛成する」し、「医師がむやみに増えれば、国民医療費が増大し、健康保険制度がパンクする恐れがある」と言いました(八六年六月二五日社説)。「毎日新聞」も同様で、医師数の削減を支持しました。この見解が今日までは、これだけ医療問題が深刻化しても、払拭されていません。この影響の大きさを考えると、指摘しておかなければなりません。
八七年から約二〇年で、約一〇〇〇人の医学部定員の削減が続いてきました。それがなければ、これまでに一万数千人もの医師が補充できていたのです。これは明白に政府の誤り、「失政」です。こうした「失政」、誤った見解に対して、政府もマスコミも、未だ反省がないということを指摘しておきます。
【本田】 私が出演したNHK番組「日本の、これから 医療に安心できますか?」(〇六年一〇月一四日放送)で、私たちの発言に対し、出席者の一人、医師会の唐沢会長が日本の医師数は足りないと認める発言をされて、私は医師会が初めて医師の絶対数不足の事実を認めてくれたと喜んでいました。
【日野】 今、私は研究者の立場として、過去の問題にさかのぼって指摘したわけですが、現在の局面では、医師を増やすため一致する共同を広げることが重要です。
そういう点では、〇六年八月三一日、政府の「医師確保総合対策」で、医学部定数を一一〇人、一〇県と自治医科大学で増やすという方針が出されました。これは八二年の閣議決定以来、二四年経って、医学部定員削減の方針転換となります。これは、大変評価すべき変化です。状況をみて、全国一〇県だけは、医師を増やしてもいいとしましたが、うち六県がもっとも医師不足が深刻な東北・新潟に集中しています。
この転換の一番の力は、現場の勤務医、地域、自治体の強い声が反映した結果だと思います。やはり医療がなくなるという現実に直面して、自治体の議員、首長さん、地域住民が、立場の違いを越えて、要望が一致する状況が広がった。それが、四半世紀ぶりに政府の態度を変えさせたのです。
事実を知れば国民は変わる
医療を守る「地域丸ごと」の運動に
――そこで最後に、今後の運動を広げていく上で、お考えを聞かせてください。
●勤労医、開業医の共同は可能
【本田】 私は勤務医不足の問題を訴える活動を、八年間ぐらい続けてきました。どうしたら日本の医療がよくなるのか。先ほどの明治以来の歴史も振り返って考えてきたのです。
基本的に、今、私が考えるのは、医療現場の現実をいかに国民の方々に、知ってもらうか、情報開示です。先ほど、医師の「偏在」という言い方は、日本軍の「転進」と同じと表現しましたが、国民が真実を知らないと、正確な判断、世論はつくられないと思います。
私はあるとき、国の行政上部の方と話して、医療制度をよくするために、国民が真実を知り、よりよい選択をしてもらうためにやっています、といったら、その方はこう言いました。「国民や政治家に正しい判断ができると思いますか」と。
私は、やっぱりそうか、と思いましたが、すかさずこう反論しました。「国民や政治家が、正しい判断をするには正しい情報を提供しないとできないじゃないですか。それでは戦前と同じになってしまうのではないですか」。
とにかく大事なことは、日本の医療現場が、普通に国民のみなさんが考えているのとは違って、医師が足りない、世界の水準と比べると実はお金もかかっていない、このことを生の声で伝えていくことが大事だと思っています。
私なりにその活動を続けてきていますが、大手の新聞社、テレビ作成者も、きちんとデータを示して説明をするとわかってくれます。もちろん、それがすぐ紙面、テレビ番組に出るかどうかは別ですが、分からないと言う人はいませんでした。
医療側の人間が、実態を伝える努力、説明責任を果たさずに、医療を悪くしたのはメディアなんだよと批判する人がいますが、それだけでは建設的な対応とは思えません。
あえてそう言うのは、私たち勤務医と、開業医のみなさんの間にも、医者同士、お互いを理解できていないことがあります。勤務医の側では、開業医の方が収入が多いと漠然と思っていたり、開業医のみなさんは、勤務医の方が仕事は楽だと誤解されている状況が少なからずあるのです。ですから、医療現場の説明責任というのは、国民、マスコミに対する責任だけでなく、医師、医療関係者の中での相互理解を強める、ための条件づくりでもあるのです。
もう一つは、そうした私たちの説明責任を果たせば、国民の側で、医療現場の実状に共感して、いっしょに活動する人が増えてくると思います。
その点で、外国の運動の例で私が大変、刺激されたのは、ニュージーランド、ドイツなどでは、勤務医が職場条件の改善を求めてストライキを行っているそうです。その際のポイントは、急性期疾患、救急外来だけは普通に診療しつつ、ストを行う。そこでも、「私たちは国民に対する医療、福祉、教育を充実したい。その主張のため医療現場から運動している」という説明責任をしっかり果たしながら取り組む。日本でもぜひ、そういう運動をやっていきたい。
近頃、茨城県の医師会の講演会で、私がそのストの話をしましたら、会場からうれしい一言をいただきました。一人の開業医の方が、「先生、勤務医のみなさんがストライキをしている間、私たちが患者さんを引き受けて、協力しますから」と。そのように、私たち勤務医と、医師会のかかりつけ医のみなさんが共同歩調をとることは可能だと思っています。
というのは医療費抑制のもとで、医療現場に身を置く誰もが苦しんでいるのです。医者同士が、敵対する理由はどこにもない。私たち勤務医が仕事をする上でも、日常的に患者さんを診ている地域の開業医の方の存在は、絶対必要です。開業医の方にとっても、急性期医療の場合は、勤務医の存在がなくてはならないと思います。あくまでも国民の命の安全を保障する仲間として、医療者がともに協調する。そのためにも、現場の人間が説明責任をあきらめず果たしていく。この点をしっかり取り組んで行くべきだと考えます。
●「地域丸ごと」で本気で取り組む
【日野】 今、本田さんは、事実から出発して、自分たちの置かれている条件を、立場や、お互いの利害が対立すると思わされている人たちにも、広く伝える活動の大切さを強調されました。それは運動の基礎になるものです。その提起を前提として、私は、「地域」をキーワードにして、これからの取り組みを考えてみたいと思います。
本田さんも、様々なところで、日本の医療が現在、崩壊しかかっているという警鐘を鳴らしておられます。この問題を地域のレベルで考えると、まず医師不足、そこから病院、診療所の診療科目が閉鎖される事態が起きています。その場合、運動の出発点は個別の利害だと思います。 まず自分が困る、子どもが困る、地域の人たちが困る。現在、市町村合併で自治体が大きくなって、旧行政区、地域ごとに、利害が異なってきます。ですから自らの実状を広く説明して、理解を得る活動は、地域間のレベルでも重要になっています。
私も、最近、いろいろな地域の医療問題での住民集会、懇談会などに出向いてきました。自治体の首長さんも出てきて、医療、健康の問題を、初めて身近に考えた、という声も出されています。会場の隅っこに座っていた、赤ちゃんを抱えたお母さんが、このままでは地域で子育て、出産ができなくなると訴える。そちらの地域ではそんな問題があるのかと、話し合う中、まずお互いを知り合うことなしには、地域間の協調はできません。
同じことが医療法人間の相互理解にも言えます。公立病院、開業医の方々、農村部では厚生連の病院の関係者、また都市部ではいろいろな設立主体ごとの病院があります。済生会、日赤、生協の病院もある。そういう多くの様々な病院が、その地域の医療を守るために、大きな舞台として、「地域丸ごと」で守って行こうという運動が求められていると思います。そこでは自治体のスタッフ、保健師も含まれます。
それは「地域丸ごと」で取り組まないと、地域の医療は守れない、という認識の現れでもあります。ここで自治体の首長さん先頭に、本気で取り組むかどうか、にかかっていると思います。
最近、私も各地を回って感じることですが、本気に取り組み出している市長さんが、増えてきています。北東北が多いのですが、宮古市、陸前高田市はじめ、保守も革新も、立場はいろいろでも、地方自治の主眼は、そこに住む人の安心、安全です。その大きな柱の一つが医療ですから、「地域丸ごと」取り組もうというのが、重要なスローガンになる可能性は大きいと考えています。
もう一つは、国際的視野で運動を取り組もうということです。もし日本が国連で常任理事国入りをめざすというのなら、都合がいいところだけ、世界の話を持ち出したり、日本独自の「スタンダード」を掲げても通用しません。
●「四苦」に真面目に応える「品格」を
【本田】 それと、私が経済界の方々に考えていただきたいのは、「新自由主義」で、「Winner – take – all. 勝者ひとり占め」というやり方で、本当に国民は幸せになれますか、という点です。〇六年九月に、イギリスで発表された「世界幸福地図」では、日本は何と九〇位です。
今、健康に恵まれている方には、医療の必要はそう切実ではないかもしれません。ただし、いつ自分が医療を必要とするか、自分の子どもや孫が、いつでも健康に恵まれているか、誰も分かりません。もしかしたら、難病や身体障害をもつかもしれませんね。その時に急に、医療を整備しようとしても間に合いません。国が医療、福祉、教育をきちんと整備しないと、日本の資本主義経済の発展もないのではないか。
【日野】 これは医療理論の出発点ですが、医療需要と言うのは、一般の商品とは違って、支払能力とは無関係に発生します。個人の懐具合とは関係なく、医療の出費が起こるものだから、これは個人任せにはできない性格のものです。これは医療の本質からしてそうです。
ですから最初は、最初は自分たちで共済制度をつくってやっていたが、それも限界がある。それで社会保険制度が一九世紀にできました。いずれにしても医療費は社会的必要経費であるという考え方です。その必要経費が、個別の経営者の目から見ると、無駄に見えるけれど、社会全体で見れば決してそうではありません。労働者全体の健康、家族の健康が守られれば、生産性も社会全体として引き上げられるわけです。そこを見ないで、目の前の経営面だけで、医療、社会保障を無駄扱いすることは、企業の社会的責任を放棄する議論だと、付け加えておきたいと思います。
その社会的必要経費としての社会保障費の中で、一番の核となるのは「社会的扶養費」の部分です。 これが日本では減らされている。一九八〇年代から始まった、この社会保障費抑制の路線の矛盾が、いよいよ沸騰点に近づいていると感じます。
【本田】 藤原正彦さんの『国家の品格』が話題になりましたが、この医療費の問題は、「国民の品格」の問題だと私は思います。二五〇〇年前に、お釈迦様が「四苦八苦」と呼んだうちの「四苦」の”生・老・病・死”は、いかにしても人間は避けることができないものです。この人間の苦しみに真面目に対応しないのは、国民としての品格が貧しいことです。経済で世界のトップをめざす国だというなら、そうした国民の品格として医療もとらえるべきだと思います。
●国民の声が政治を動かす
【日野】 それには本田さんの言うとおり、知らせることです。知れば、世界的に見て、日本のレベルがこんなに低いのか、みんなびっくりする。
もう一つは、やはり、運動が大事だという点です。本田さんからストライキの話も出ましたが、非常に積極的な提起がありました。世の中を動かすためには、社会的な運動が基本です。この点は厚生省の大臣、局長経験者OBの回顧をまとめた本にも出てきます。『戦後医療保障の証言』(小山路男編、一九八五年、総合労働研究所)という本です。
そこに登場する、たとえば古井喜実氏(池田内閣の厚生大臣)は、小児マヒ対策でソ連から生ワクチンを緊急輸入(一九六〇年)したのは、赤ちゃんを背負ったお母さんたちが、毎日毎日、厚生省の中庭まで入ってきて、薬務局長を呼び出し訴えた。同じように日本中で巻き起こったお母さんたちの「騒ぎ」に押されて、ワクチン導入を決めたと述懐しています。
この本には、こういう話が戦後を通して、何回も実名で語られています。BCG(結核感染予防の接種)の注射針跡が大きく残るので、あれだけ騒がれたので、器具を変えたという証言もあります。したがって声が起こらなければ、何も変わらなかったわけです。運動が一見、力をもたないようだが、実は霞が関の官僚を動かすということが、歴史的事実で証明されているのです。
【本田】 そうですね。やっぱり、黙っていたらダメなんです。その話は、私の活動への応援にもなります。
【日野】 運動のことで言えば、先ほど触れた、一九八二年以来、四半世紀経って、今回初めて医学部定員削減を曲がりなりにも修正した。そこにも「地域丸ごと」の運動が力をもつことが、すでに現れたのだと考えられます。
今、大変厳しい状況が生れているだけに、それらの運動が実を結ぶ条件が大きくなっていると言えるのではないでしょうか。
【本田】 私も、ピンチがチャンスだと思っています。国民の方々も、医者にちゃんとやってくれ、と言えば何とか自分の命は助かる、という状況ではなくなっていることに気付いてもらえば、大きく事態は変わると思います。
――お忙しいなか、ありがとうございました。