参考に採録
6、金融商品を見てみても
これまでの章では、多くの政府の失敗をあげつらってきた。平等を目指す、あるいは弱者保護の政策が、結果的にはみなを貧しくしている事例を取り上げてきた。私のような市場原理主義者は、これらのすべてを市場に委ねるのがもっとも効率的で望ましいのだと結論する。
しかし、多くの人びとは、すべてを弱肉強食の市場に任せてしまえば、そこでは弱者が搾取されてしまうというだろう。経済学の言葉でいいかえるなら、情報量が非対称であるために、より多くの情報を持つ人たちが情報を持たない弱者の弱みにつけこんで、不公正な取引が横行するというわけである。
この章では、弱者が不利益をこうむるという主張を支えている、情報の非対称性についてもう少し考えてみよう。
多くのサギ話があるが
私はスカイプを頻繁に使う。ほとんどの通話はスカイプでおこなっているといっていいほどである。スカイプはルクセンブルグに本社を置く通信会社だが、音声を完全にIPパケット化して転送しているために、無料で全世界のスカイプユーザーと話すことができるのである。
私も、たまには固定電話も使うが、それは重要な仕事の場合などだけである。また携帯電話にいたっては、私には急ぎの用事などない職業であり、通話料金が高すぎるので、ほとんどまったく使わない。
さて、私のような人間の立場からすると、2007年2月に起こった近未来通信社のサギ投資事件は、およそ最初からはっきりとサギ以外の何者でもないトンデモ投資だということになる。
当時の近未来通信社の宣伝によると、全世界に通信サーバーを設置して、IP電話を世界に広めるというビジネスモデルだと喧伝していたのである。しかし、スカイプに触発されてヤフー・メッセンジャーやマイクロソフト・メッセンジャーなど、無料のIP電話がワンサカと開発されていたのである。近未来通信のようなバカバカしいビジネスが成立するはずがない。
近未来通信社の宣伝には、宝塚出身の大地真央などが起用され、日本経済新聞の一面を借り切ってデカデカとおこなわれていた。でかい話ほど、ホラ話であるということを見抜けないものだといわれている。
これが明らかなサギ話だというのは、自分がインターネット業界に詳しくなければ、あるいは判断が難しいのかもしれない。とはいえ、2ちゃんねるなどでは、早くから近未来通信社が単なるサギであることを指摘するスレッドが立っていたのである。
だから、東京都が租税徴収のために会社を捜索したあとに、検察が重い腰を上げて、サギ話として捜索を始めたというのは、いかにもあきれた話なのである。おかげで、サギの張本人であった社長は現在もアジアのどこかに高飛びして潜伏しており、国際手配されている有様である。
これと同じようでも、実質はだいぶ違う話に平成電電の社債発行がある。平成電電は、もともと固定電話から携帯電話への通話料金の低さを武器にして、固定回線をNTTから奪おうというビジネスモデルであった。
これはそれなりに納得できる構想であったが、そもそも固定電話から携帯電話への通話料金だけでは、消費者にとって、それほど大きなインパクトはないだろう。携帯電話には携帯電話からかけるのが普通になってきている上に、そもそも固定電話からの発信自体が減ってきていたからである。
結果的に、平成電電は加入者を十分に獲得できないことになってしまった。設備投資のためとして公募した社債を、実際には運転資金にしてしまい、この時点でサギ話となってしまったのである。現在、元社長は詐欺罪で起訴されており、間違いなく有罪になるだろう。
しかし私は、ごく最初の起債の時点での社長は犯意はなかったのではないかと思う。むろん、設備投資費を運転資金に流用したのは明らかな犯罪だが、最初の起業の時点では成功するかもしれない事業だった点では、近未来通信社とはまったく質が違っていると私は評価している。
さて、このようなサギ話は世間には、掃いて捨てるほど転がっている。これらから得られる教訓はなんなのだろうか。それは情報を処理するのには手間や時間などのコストが必要だということなのである。
情報の取得にはコストが必要である
こういえば、当たり前じゃないか、という人もいるだろう。しかし、ほとんどの人はこのことについて真剣に考えてはいないと思われる。たしかに、ほとんどの消費製品に関しては、人びとは自分の趣味によってそういった商品を買うのだから、商品についての情報は自然と頭に入っており、問題を感じることもないだろう。
しかし、これが銀行預金や投資信託、さらに各種の保険などの金融商品のように、特にそれ自体の具体的な特徴もないような、抽象的なものについてはどうだろうか。ほとんどの人が、特に面白くもないそういった金融商品の情報を得るために、お金を支払おうとはしていないのではないだろうか。
一例をあげてみよう。
アメリカをはじめとする金融の先進国では、投資信託の購入に際しては、ノーロードと呼ばれる仲介手数料が無料のファンドが普通である。さらに年間の運用料金としては、およそ1%程度が普通だ。
これに対して、日本の銀行や証券会社で取り扱われている投資信託のほとんどは、手数料が3%で、年間運用費も1%から3%程度となっている。これは、日本人がよくよくお人よしである証拠なのか、あるいは金融商品についてよく比較して考えたことがないからだろう。
この点について、12回にも及ぶ華麗な転職歴で有名な金融評論家の山崎元は、ベストセラー『山崎元のオトナのマネー運用塾』で、納得のいく話をしている。いわく、手数料が無料で、運用費が0.2%程度の「投信のユニクロ」が日本にも出現して、投資信託の主役になるべきだというのだ。
これは、たしかにあまり見られない商品だが、本質的には無理でも何でもない。すでにいくつか実現しているものもある。例えば、楽天証券に口座を持って、170万円ほどでTOPIXに連動した上場投資信託を買うことができる。具体的にもっとも割がいいのは、日興アセットマネジメントの「上場インデックスファンドTOPIX」だろう。このとき、株式の売買手数料として1000円ほど取られるかもしれないが、運用費用は年間わずか0.1%程度である。
日本にはこれほどの商品はたしかに少ないのだが、世界を見渡せば、むしろ主流化しているのが現実である。株式投資信託が日本の10倍規模であるアメリカで最も人気があるのは、スパイダーズという運用会社の設定しているS&P500という商品である。
これはスタンダード・アンド・プアーズの選んだ代表的な銘柄である、アメリカの500種の株式を組み込んだものである。その組み込み銘柄の多さによるリスクの低さに加え、運用手数料が約0.1%と最低レベルであるために、資産総額は7兆円にもなっている。同じように、そのライバル商品にはiシェアズの運用費0.09%や、ダイアモンド・トラストは運用費の年0.18%などがある。
近い将来には日本でも、このような効率的で簡素な上場投資信託が主役となるだろう。しかし現在のところ、多くの日本人は郵便局で、手数料3%を支払いながら、運用手数料が年間2%をこえるような投資信託商品を買っているのが現状だ。
2007年5月9日の日本経済新聞の記事を見てみよう。そこには、モーニング・スターの調べによると、日本の発行済み投資信託の運用費の平均が1,3%であること、さらにこれがアメリカの約二倍であることが報告されている。そして、そのような信託管理費の上昇傾向は、2000年以降の中国やインドの躍進を受けたもので、こういった躍進の著しい国ぐにでは、アメリカやEUなどの先進国よりも運用費が高いためであると指摘しているのである。
さて私が子どもの20年後を見越した教育資金として、インドや中国の株式を中心とする投資信託をするとしよう。こういった国ぐにの株式投資信託の運用費用はおよそ年間2%だから、20年のうちには、手数料だけでも40%近くになる。
40%にも及ぶ違いというのは、投資のうまい下手を超えた大きさである。それほどの違いが生じるにもかかわらず、日本人のマジョリティは大手銀行や大手証券から金融商品を買い続けているのである。あるいは、真のマジョリティは1%未満で銀行預金をもち続けるもっとも保守的な人びとであり、それは日本の金融資産の過半数が預貯金であることに現れているだろう。
この辺のコストを理解しないままに、投資信託を買うべきではない。このことは団塊世代の退職金を狙った投信ブームに警鐘を鳴らすベストセラー『投資信託にだまされるな!本当に正しい投信の使い方』にもはっきりと書かれている。
さて、このような事態をどのように解釈するべきなのだろうか。
あるいは、これは単なる無知であるというよりも、郵便局なり、三井住友銀行なりといった、信用度の高い金融機関のもつ情報の信用プレミアであるというべきなのかもしれない。もしそうだとするなら、独自の言葉や文化の厚い壁に守られた日本の金融機関に対して、日本人はひじょうに大きなプレミアムを支払っているといえるだろう。
単なる無知なのか、あるいは信用プレミアムなのかは、ここでは読者の判断に任せたい。しかし当然ながら、私は国内銀行が取り扱う商品だからといって、特別なプレミアムを支払う価値などはまったくないと思う。日本人でも多くの人びとが、ヴァンガードやフィデリティなどの大きな外資が、日本で直接に商品を販売してくれればいいと考えているのは事実なのである。
おそらく、言語や文化の壁というものは大きいので、金融商品の選択方法を変革するというのはかなり難しいのかもしれない。それはちょうど、BMWやメルセデス・ベンツが日本では高級品として売られるために、アメリカでの価格よりも2割程度も高く売られているという状況と、比肩しうるのかもしれない。それはつまり、高額のものは信用ができるというような、日本人のもつ国民感覚の問題かもしれないからである。
とにかく、関連する情報を自分で探して、それを理解して、リスク計算までするというのは大変な労力が必要である。それなら、自分でやるよりも、手数料は高くても野村證券にまかせてゆっくりとすごすというのもいいというのもありとなる。これは、どちらがいい、ということではない。それは単なる選択の問題で、自分の好きなほうを選べばいいのである。
しかし、サギ話とまともな投資信託であれば、はっきりと判断できまるが、市場の用意しているあまりにも多くの金融商品を比較するのは容易ではない。特に商品のリスクとリターン、さらに自分の置かれた所得の状況などを考えれば、適切な商品選択は至難の業である。
大手の証券会社にいけば、彼らの都合のいいような商品を売りつけられるのが関の山である。しかしだからといって、独立したファイナンシャル・プランナーに相談にいって、有料でサービスをうけている人がどれだけいるだろうか。
しかし、情報それ自体には大きな価値があるのである。
これに対しては3つの対応が考えられるだろう。第一は、自分で基礎から勉強して、意思決定をするだけの知識とノウハウを得るというものである。これは経済や金融商品に興味がなければ、比較的ハードルが高いものだろう。
第二のものは、中立的だと考えられる第三者機関や、雑誌、あるいは人気の経済評論家やブロガーなどの書くことを信じて、彼らが薦めるものを買うことである。これは誰が信用できるのかということを判断する必要があるため、中程度の情報処理コストと出費を要するといえるだろう。
私自身がこの方法が嫌いな理由は、さまざまな商品を薦めている人がいるとしても、理由が理解できないことがほとんどだからである。これは競馬評論家などでも同じだが、本当のところ、彼らがそういった商品を個人的に買っているのかどうか怪しいものである。いい加減に記事の締め切りにあわせているかもしれないし、あるいはどこかから金をもらって書いているのかもしれない。自分で調べるほうが、よっぽど納得できるのだ。
最後のものは、野村證券なり三菱UFJ銀行なりに直接にいって、そこで商品を薦められるままに買うというものである。これは、もっとも安易でお気楽なやり方だが、もちろん相談料金は商品の手数料なり、運用費用なりに上乗せされている。
どのやり方にもメリットとデメリットがある。自分に合ったものを選べばいいのだろう。しかし、情報が無料だというのは古きよき時代の幻想である。同じように、国家が「正しい情報」を無料で与えてくれるということも、そもそも原理的に不可能である。誰もがすべての情報を持っているわけではなく、それは国家でも同じだからである。
私の受けた社会科の教育といえば、源義経がどうしたこうしたというのが日本史であり、あるいは唐の政治制度の詳細を知ったりするのが世界史であった。しかし、現代を生きるには過去の武将たちや専制王朝の政治制度のことなどはどうでもいいのである。少なくとも、小学校程度の知識で十分だろう。中学以降は、金融商品のしくみや世界経済の一体化と人生設計を教えるほうが、よほど意味のある教育なのではないだろうか。
お気楽投資を目指すなら
ここで、私自身の投資経験をお話しよう。今書いたように、おそらくもっとも安全な株式投資とは、世界の国々の株式市場の上場投資信託を、各国の経済規模に合わせて購入することである。例えば、中国が世界の7%の経済規模で、日本が8%、アメリカが20%なら、その割合で、世界の株式市場全体を指数化した上場投資信託(ETF)を買うというものである。
もちろん、投資信託は購入手数料で3%、運用費用で年間2%程度がとられるバカバカしい商品なので買わない。これに比べて、ETFは年間の運用費用がひじょうに安いため、長期投資に向いた商品である。
前述したように、この長期投資手数料の違いから、アメリカでは近年ETFの大ブームが巻き起こっており、不動産から金にいたるまでさまざまな種類の証券が上場されている。規制ばかりの日本では運用資産の3%程度がETFで運用されているが、アメリカでは30%を超えているのだ。
さて、すべての国の株式市場の商品を買うのは、おそらく最低でも1千万円以上は必要となり、一般人には現実的ではないだろう。そこで、実際には、アメリカのETFと、アメリカ以外の世界経済をインデックス化したMSCI EAFEと呼ばれるETFを買うことになる。これはアメリカの金融指標会社であるモルガン・スタンレーが1970年に考案した世界経済インデックスMSCIにしたがって、アメリカ以外の先進国の代表的な銘柄を選択したものである。
これによって、個別のカントリーリスクは回避されるわけである。私は、かつて起こった世界恐慌とそれに続く世界大戦のように、世界経済の全体が暴落するようなことはないと考えているが、そういった可能性がないのなら、これだけでお気楽に投資は完了である。過去100年以上にわたるアメリカでの資本市場の平均的なパフォーマンスが世界規模で続くとすれば、10年で二倍、20年で4倍にはなるはずだ。
私はチャートを使っても、財務分析をしても、投資家が株価インデックスを上回ることはできないと考えている。基本的には、株式市場は効率的であるため、継続的にインデックスに勝つことは確率的にできないと思うからである。あるいは可能な人もいるかもしれないが、そのためにはたいへんな情報処理が必要だろう。お気楽なインデックス投資のほうが、はるかに何も考える必要もなく、かつ間違いのない投資方法なのだ。
私のような考えは、効率市場仮説と呼ばれる。これに対する反論ももちろん存在しており、行動ファイナンスなどでも盛んに議論されていることである。私のような典型的な新古典派の経済学者とは異なった考えを持つのも個人の自由だが、学問的な事実を知っておくことは重要だと思う。
事実、ほとんどのプロのファンド・マネージャーはインデックスに勝ってはいない。これはアメリカの金融工学を使った人々の話であって、素人のデイ・トレーダーにいたっては、99%以上がインデックスに負けている。
金融関係の情報を処理するのは面倒な上に、時間もかかってしまう。私の個人的な意見では、人生の時間は有限なのだから、もっと生産的なことに時間やエネルギーは割くべきである。また取引をすれば、確実に証券会社に手数料が取られることを考えると、アクティブな証券トレードは無益を超えて有害なのだ。
この点についてもっと興味のある方は、例えば、世界的なベストセラーである『ウォール街のランダム・ウォーカー』などをお読みになることを勧めたい。この本はアメリカの学術的な金融経済学の常識を書いたもので、500ページ近い厚さではあるが、間違いなくそれに値するものだ。
さて、もっと具体的に金融商品について述べるなら、アメリカのETFはスパイダーズかiシェアズのS&P500を買うべきだろう。なぜなら、運用手数料が年間、0.1%程度でほぼ最低だからである。また、MSCI EAFEについては、ヴァンガードの商品が0,15%の運用費で抜きん出て割安となっている。原理的には、この二つの商品を買うだけで、世界の先進国経済の躍進の成果をのんびりと満喫できるだろう。
さらに新興国の主要な株式を全般的にETF化したものに、エマージング・マーケットと呼ばれるものが、iシェアズやニューヨーク銀行の発行するBLDRSなどの運用会社から発売されている。これは信託手数料が年間0.7%程度と高い。新興国経済は成長も速いが、後進的な証券市場には独特の非効率もあるので、やむを得ないのだろう。これを、上述の先進国のETFに加えれば、基本的には世界の資本市場を大まかに網羅したことになる。
私は10年ほど前に、このような商品構成を目指して、アメリカの証券会社に口座を開こうとした。しかし、複数の証券会社から、「日本人については口座開設できないことにしている」という理由で断られた。これはあるいは、日本の国税局から、日本人の口座についての書類提出の要請があったために、日本人を顧客とすることはわりに会わないと考えたからではないだろうか。
2007年現在では、楽天証券や野村証券などが比較的に多くの外国籍のETFを取り扱うようになったが、これまでなぜ日本の証券会社で世界のETFを購入することができなかったのか。金融業界にいない私には本当の理由は定かではないが、おそらくは、手数料収入が少ないために、証券会社が基本的に取り扱わないことにしているのだろう。手数料が低い商品を宣伝するような会社もなければ、そういう商品の存在は知られないため、需要も喚起されないというわけである。
どうであるにせよ、一般の日本人として生きるというのは、いろいろと不便である。結局、世界のさまざまな証券を割安に購入するには、アメリカ、香港やシンガポールの会社を利用するしかない。なぜ、日本のような進んだ金融システムを持つ国で、世界のすべての証券が購入できないのか。つまりは「投資家保護」が行き過ぎているからであり、保護は許可された銀行による一般投資家の搾取を公認する結果になっている。おりしも日本の銀行が空前の利益を謳歌しているのは、団塊世代の投信購入の手数料と無関係ではないだろう。
アメリカやオーストラリア、香港、ヨーロッパ、韓国などの国ぐにのETFについては、楽天証券や、野村証券や日興コーディアル証券が取り扱っている。しかし、世界には商品から個別セクターまで驚くほどたくさんのETFや金融商品が存在している。この意味で、金融商品の消費者としての日本庶民は、まさに踏みつけにされている。これは先進国として、あまりにもお粗末だ。
なお、外国為替の取り引きをFX「投資」として好む人もいるが、私はこれは勧めない。資本主義における株式投資とは、社会的に有益な活動に資金を供給することであるから、全体としてウィン・ウィンの関係にある望ましいものだといえる。あるいは、期待利得が年間7%程度の賭けごとだといえる。
しかし、外国為替の変動を使って勝つ人間の裏には、基本的に負ける人が必ず存在しており、この意味で為替投資と株式投資は異なる。FX投資とはバクチと同じく、期待利得がゼロの純粋な投機なのである。相互扶助の精神からしても、世界の株式、あるいは債権に投資すべきだろう。
生命保険という商品
私にとって、日本人が高い手数料と運用費を支払って、投資信託を買っているということなどよりも、もっと気になることがある。それは、生命保険という独自に発達した奇妙な金融商品が、日本ではあまりにも一般化していることである。
日本の生命保険の残高はGDPの4倍にもなっている。これは人口規模ではるかに大きなアメリカよりも大きい。その理由は一体何なのだろうか。
ある人は、日本人がリスク回避的であるからだと主張する。たしかに、私が突然ガンで死亡してしまえば、残された子どもの生活はたいへんな苦労の多いものになるだろう。そういう最悪の事態をカバーするのが、生命保険という商品なのだ。とすれば、家族のためを思うリスク回避的なサラリーマンが、高額の生命保険に入るというのもわからないではない。
しかし私には、これが異常な生保残高の決定的な原因だとは思われないのである。私の見るところでは、生命保険は生保レディという兵隊をやとって、その親族や友人などのネットワークを利用して、商品を売り込んでいる。つまりこれは、人間関係そのものから金を引き出すタチの悪いネットワーク・ビジネスだということである。
実際、いまどきのマネー雑誌の家計診断をみると、かならず「生命保険をシンプルにして、保険費用の節約を考えましょう」と書いてある。多くの人は、親戚や知人、友人が生保レディであるため、それほど深く生命保険の必要性を考えないままに、いわば「万が一の場合について脅されて」生命保険に加入しているということなのだろう。
その証拠に、自分が入っている生命保険の内容をよく知らないため、疾病時においても支払請求をしていない。これが大きな話題を呼んだ、生保の未払い事件である。例えば、2007年の9月27日の日本経済新聞の報道によれば、
「日本生命保険、第一生命保険など生命保険大手4社が近く金融庁に報告する保険金などの不払いや支払い漏れが、合わせて100万件・400億円規模に達する見通しであることが26日分かった。今年4月の中間報告時点に比べ、件数で5倍、金額は2倍以上に膨らむ。死亡保険などに上乗せする三大疾病や通院保障などの特約や、失効した保険を解約すると戻ってくる失効返戻金の支払い漏れなどが大幅な増加要因となるもようだ。」
ということである。特約次項の不払いが多かったのは、加入者が保険の内容をよく知らなかったためである。それもこれも、生命保険自体が自分の自主的な意思というよりも、あまりよく理解もしないままにセールスされたものであることは明らかだ。
ここで、生命保険業界が特殊であるからと言って、それが日本国政府と関係ないではないか、といぶかる方もいるだろう。しかし、かつての大蔵省は銀行、証券、損保、生保に局レベルで別れて、護送船団でそれぞれの業界の発展を図ってきた。
本来的な機能では、規模が見劣りする生保業界にも、貯蓄保険という曖昧な金融制度を認めて、消費者サイドから見て無意味に肥大化させてきたのである。やはり過大な生保会社の存在にも、過剰で有害な国家的な監督行政が一役買ってきたのである。
さてこれまでは、セールス・パワーを十分に活用してきた生保業界だが、アメリカン・ファミリーやアクサ、アリコなど多くの外国資本の上陸によって、徐々に契約形態が変化しているのも事実である。
現在、多くのショッピング・モールには小さなブースの保険代理店が急増してきている。そこには保険商品を説明するパソコン画面が見えるカウンターがならび、多くの保険会社の多様な商品のなかから、その人のライフ・サイクルに見合ったものを薦めてくれる。
私の死亡時に家族が必要とする金額は、息子がまだ幼稚園に通っている場合と、すでに大学に入学している場合ではまったく違うはずである。適切な保険金額は、一年一年変化しているのだから、それにあわせて、保険も一年ずつ掛け捨てで見直すのが正しいだろう。
少なくとも、日本の生命保険のような貯蓄性も兼ね備えた商品というのは、その区分が曖昧であり、運用方法を考えても、到底魅力があるようとは思われない。実際、前出の山崎元は、『お金をふやす本当の常識』において、30のルールを提唱している。その19番目には、「できるだけ保険には加入しないこと。本当に必要な保健にだけ泣く泣く入る。」というルールをおいているのである。
山崎によれば、「生命保険のように損得判断が難しい複雑な商品が、売り手の粗利を開示せずに売られていること自体が、消費者保護の観点から不適切ではないでしょうか」という。さらに彼は、週刊東洋経済の記事をもとに、運用費である付加保険量を算定している。
「一般的な保険に関する限り保険料の「三割、四割はあたりまえ」といった比率が、保証にも貯蓄にも使われていないのです。これは「暴利」ではないでしょうか。」
これが、山崎の結論である。いうまでもなく、どんな金融商品を取ってみても、運用費用が30%を占めるようなものは見当たらない。これこそが「生命保険とは生保レディのネットワーク・ビジネスだ」とまで私が断言する理由である。
なお、山崎は外資系生保についても、「高齢になった時の死亡保証を削減するなどの形で、不要な保証を省いて魅力を作っているものが多いようですが、付加保険料は手厚く取っているようですし、必ずしも割安なわけではありません」と手厳しい判断を下している。
確かに実際のところ、金融資産がそれなりにある人間の場合、リスクはできるだけ自分で取るようにした方が、書類を書く手続きも要らないし、自分の健康ももっと気にかけるようになるだろう。少なくても、保険会社の職員が相当に高い給料をもらっているということは、保険数理的に十分な払い戻しがなされていないことを意味している。
さて、生命保険について、私がまた別の大きな問題だと思うのは、高額の保険金契約によって毎年のように誘発される保険金殺人である。
これは、保険金の額が、本人の将来的にもたらすだろう金銭を超えているような場合に起こりがちとなる。このような場合には、遺族の立場からすると、本人が死んでくれたほうが金銭的に裕福になってしまうからだ。
中学生の息子を殺して保険金を詐取しようとした例や、夫を殺して、高額の保険金を受け取ろうとした例には、新聞紙上本当に事欠かないほどである。最近では1999年に看護婦4人が夫を殺して、3000万円を騙し取ろうとしており、また2000年には埼玉県本庄市で、風邪薬を大量に服用させた3億円の保険金殺人事件がおきているのである。
また1992年には長崎市で、夫と実子を、愛人と共謀して殺した女が逮捕されており、それ以前にも7件もの保険金目当ての親による実子の殺人が発覚している。おそらく、暗数はさらに多いはずである。
よく考えていただきたい。自分が死んだ場合に、残された家族がより金銭的に豊かになるような保険金額を望む人がどれほどいるのだろうか。いわんや子どもを生命保険に加入させるというのは、保険という制度趣旨からして異常なことである。これは、知人のセールスがなくては、絶対に加入しないような保険だ。
日本の生命保険業界は、いまのところ、それほど大きく変化していないようである。しかし、今後ますます進む世界資本の上陸に従って、次第に世界の常識と同じように、一年ずつの掛け捨て商品が主流になるのではないだろうか。
ここでも、金融商品の情報には価値がある。国家がその情報を弱者にも与えることなどできない。保険商品の種類はあまりにも多く、かつ消費者の境遇はあまりにも異なっているからである。
このような場合に、必要な情報が消費者には十分に理解できないということはあるかもしれない。しかし、だからといって、多様な保険商品を禁止することは、結局は消費者のためにならないのだ。情報は長い時間をかけて、消費者自身がゆっくりと消化するしかない。
国家が、情報の格差を解消しようとすれば、認可される商品の種類は限定されてしまうだろう。結局は、これまでのように画一的で、投資価値のない保険商品を、ネズミ講のようなセールス・パワーで売りまくるという矛盾が横行することになってしまうのである。
現実にアメリカではファイナンシャル・プランナー(FP)が金融機関から独立しているのが普通である。消費者から相談料をもらって、格付け機関などの情報を元に、相談者にあった金融商品を薦めるのだ。
私の友人は、日本のFPの資格を持っているが、「FPだけでは食っていくことはできないよ。やっぱり、証券会社か銀行に勤めて、商品を売らなきゃ、手数料は入らないからな」という。
金融機関の護送船団方式によって、消費者にとっては、金融商品の選択の機会はきわめて少なかったというのが、戦後日本の現実である。消費者には、だまされない代わりに、自分で考える必要のない程度の商品バリエーションしか提供されなかった。長い年月の間に、金融商品の相談料は無料のものだという常識ができあがったのである。
しかし、REITから私募ファンドや匿名投資組合にいたるまで、金融商品は多様に分化・複雑化している時代である。長期的には、日本でも独立したFPが活躍するようになるだろうし、それ以外の方法では、一般の人は有用な金融情報は得られないはずである。
原宿の占いの館では当然として支払われる相談料が、金融商品の場合には高いと感じられるのは、私には理解できない奇妙極まりない現象だ。市場でそれなりの取引きをするには、情報コストが必要なのである。このことが次第に常識となれば、むしろ明らかなサギ話は常識人の間ではむしろ減ってゆくはずである。
市場しか新たなサービスは作り出せない
さきほどは、サギ話が無限にわいてくるということに注意を促したが、サギ話を有意味な起業活動から画然と分けることなど、そもそも誰にもできない。それは技術情報というものは、市場において試されてみなければ、サギか大儲けなのかが、政府を含めて誰にもわからないのだ。
グーグルが創業したのは1998年だが、わずか8年でマイクロソフトにも迫る時価総額20兆円の巨大企業に成長した。おそらく、資本主義の歴史において、これだけ急速に成長した企業ははじめてではないだろうか。
周知のように、グーグルのコアな強みは検索エンジンにある。ネットに接続する際に、ヤフーのように企業の側で用意したポータル・サイトからスタートするというのは、グーグルが出現するまでは自明なことだと思われていたのである。人は、何かの情報を得ようとしてネットにつながるのだが、情報をもっとも見やすい形で整理をしていたのはヤフーのようなサイトだったからである。
検索エンジンがより洗練されるにつれて、お仕着せのポータル・サイトからではなく、むしろ自分の調べたいことから始めるユーザーが増えてきたのである。しかし、グーグルの出現以前には、検索という活動自体のもつポテンシャルを完全に理解していた人はそれほどいなかったのである。
よく知られているように、グーグルはスタンフォード大学の二人の大学院生、ラリー・ページとセルゲイ・ブリンによって創業された。彼らは大学院生であり、自分の資産で会社を作ることができなかったが、シリコン・ヴァレーには、そういった新しい技術的なアイデアとヴィジョンに投資をする人たちがいたのである。初期のグーグルはサーバーの運用費用がかさむわりには、広告などが入らないために、長い間赤字だったといわれている。
2006年に、愚かにも経済産業省はまたしても、グーグルに対抗する新たなる検索エンジンを日本で作ろうというプロジェクトを立ち上げている。300億円を投じて国産検索エンジンを開発することによって、グーグルなど外国企業による圧倒的な影響力の一部でも奪おうというのである。
少数のブロガーを除いて、ほとんどの人びとはこれに対して、冷ややかである。実際、成功すると考えている人間などいないといっていいだろう。経済産業省はまたしても、かつてのシグマプロジェクトや第5世代コンピュータ開発の二の舞をしているのだ。
経済産業省の役人が、村上ファンドのようなファンドを個人的に立ち上げて、こういった企画を試みるというのであれば、それはそれで大変に結構なことである。しかし、私から集めた税金は使わないでいただきたい。
300億円は、私一人の税金にすれば、たかが300円程度だ。なにも目くじらを立てることもないだろう。しかし、このような300円が積もり積もった予算が、私たちの税金のほとんどすべてなのだ。バカげた企画は、彼ら官僚にとってのアブク銭である国民から搾取した税金ではなく、自分の金でやってもらいたい。
ここでの教訓は明らかである。国家官僚などがすばらしい企画を立ち上げるというのは、この複雑で予測の難しい現代社会にはありえないのだ。日本経済は当の昔にキャッチ・アップの段階を終えて、まったく創造的な産業と企業を必要としている。
ハイエクが指摘したように、広く社会一般に存在する情報をあまねく集めて、それらを効率的に処理することなど、組織レベルでできるはずがない。情報はそもそも社会のどこかに偏在している。それを広めることができるのは、市場を通じての成功によってのみなのである。
グーグルをはじめようとした二人の創業者は、彼らの検索エンジンのもつ技術的な可能性についての情報を持っていただろう。しかし、誰にもグーグルが成功することは確実に予見できなかった。実際に、彼らの検索エンジンがすばらしいものだということに全員が納得したのは、市場を通じて彼らの技術が圧倒的に支持されてからだったである。
情報の非対称性は、たしかに存在している。それは社会的な弱者と強者の間にあるいうこともできるだろう。しかし、この点については、国家が何かできることなどない。そもそも現代社会では、国家それ自体も情報弱者だからである。
むしろ、弱者である人びとに対しては、「自分自身が弱者であることを認識して、リスクの高い新しいものには飛びつかないようにしましょう」というような教育をするのが、精一杯だろう。おそらく、情報処理能力の格差とは、そもそも人びとの稼得能