採録
公的年金制度の解体
公的年金もまたリバタリアンにとっては、クニガキチントの誤謬の典型としてとりあげられるものです。いうまでもなく、人生においてどのような消費パターンを選ぶのかは、一人一人の自由な判断にゆだねられるべきだからです。
私は保育園の卒園時に、イソップのアリとキリギリスの寓話の劇を演じました。その劇では、アリは夏に一生懸命に働き、冬に備えて多くの貯蓄をしました。これに対して、キリギリスは夏を遊んですごし、冬には困窮し果てましたが、最後にはアリの憐憫の情によって助けてもらいました。これはお話だから助かったのでしょうが、現実には、キリギリスは困窮して死んでしまうのかもしれません。
寓話の意味は明らかですが、今になって考えみると、どちらの人生がいいということなどできません。それはすぐれて個人的な価値判断に依存する事柄だからです。人生の意味は個人の心の中にあるのです。私たちに許されるのは、せいぜいが貯蓄をして豊かな老後を送ることのほうが懸命だろうとか、よりよい人生なのだと「説得」をしようとするところまでであって、「強制」してはならないのです。
ここで便宜的に、先ほどの医療制度にならって、まず現行の制度により近い、レベル1の自由度をもつリバタリアンな年金制度について考えて見ましょう。
民主党も提案していることなのですが、この段階では、公的年金制度は各人の生涯所得に応じて一元化するべきです。捕捉するのが難しい、あるいは年金の掛け金を徴収するのが難しいなどというような道徳的に理解しがたい、まったくバカげた理由からサラリーマンや公務員と自営業者をわけて取り扱うべきではありません。
たしかに、サラリーマンや公務員などの給与所得者は、いうまでもなくその所得がガラス張りになっており、年金の掛け金も雇用者側が支払うために逃れることはできません。これに対して、自営業者がサラリーマンと同じ年金をえるためには、徴収されるべき掛け金の額が大きく、支払えないケースが続出するというのは事実でしょう。
ですが、それが理由で年金制度が維持できないというのであれば、税金と同じように強制力を使った徴収を今よりも徹底しておこなうべきです。あるいはサラリーマンの年金保障と掛け金を、自営業者の加入している国民年金と同じ程度に下げなければ、明らかに不公平です。
国家は、強制力をもって年金制度を維持しているのです。最低限度の倫理性・公平性を維持できないのであれば、そのような制度はそもそも最初から維持しようとするべきではありません。
ここまでくれば、レベル2の年金制度が、完全な民営企業による個人年金制度しかないことはおわかりでしょう。現代の先進国家のように金融制度が発達した社会では、自分の老後は自分の責任で世話をするのは、人間として当然のことだと思います。
年金制度についても、重要な事実を指摘して締めくくりたいと思います。これはデイヴィッド・フリードマンも指摘していることなのですが、私も昔から考えていたものでず。
一般に、年金制度の趣旨はパターナリズムであると考えられています。教育程度も低く、所得も低い人びとは将来のことをあまり考えずに、今を楽しく生きてしまうため、老後にそなえた貯蓄はあまりありません。彼らの老後を健康で文化的なもの(日本国憲法第25条)にするためには、国家による年金制度が不可欠だというのです。
しかし、ここには大きな罠があります。
一般に、低所得者層の多くは、高校卒業という人生の早くから収入を得始めます。大学を卒業して働く人よりも4年は早く、大学院を出た人に比べれば10年以上も早い場合もあるでしょう。この場合、その間の利子率を世界的な資本主義の常識である年率7-8%とすれば、掛け金は2倍にはなるはずです。
さらに現行の年金制度では、「最終」的な賃金に応じて年金額が決定されることが普通であり、「生涯収入」に比例しているわけでもないのです。明らかに、こういった制度設計は、収入が安定している高学歴の人間にとってのほうが、はるかに有利なものなのです。
もっと決定的な事実は、低所得者層は高所得者層よりも平均して早く死亡しているということです。この事実をもって、左翼的に「低所得者層は十分な医療を受けることができないから早死にするのだ」と考えることもできるかもしれません。
しかし、みなさんはそういうふうに思いますか。私は思いません。おそらくは低所得者層は、教育程度が低いがゆえに、その生涯を通じて生活習慣病のリスクが高まるような生活をしてしまっているのではないでしょうか。
ともあれ、ここでの理由はどうでもいいのです。単純な算数の問題として、長生きするのが高所得者層であれば、それだけ高所得者層が年金制度から大きな恩恵を受けるのですから。残念なことに、こういった事実は指摘するのもはばかられるために、表立ってはこないのです
年金制度は、現実には低所得者層の福祉のためになってなどいないのです。そこでは制度を設計した公務員の人生がモデルとして扱われています。つまり、会社が倒産して、転職を余儀なくされながら、新しい会社での給与も下がっていくという民間人の人生など、はなから考えられていないのです。なぜ、私たちのすべてが、公務員のような生き方をすることを考えた「モデル賃金」などに準拠した制度を維持していく必要があるのでしょうか。
もともと非自発的な強制権力の発動である公的年金制度の運営には、徴税と同じように膨大なコストがかかります。社会保険庁などという本質的にムダな機関は国税庁と統合するべきであり、別に存在する必要など一切ありません。
クニガキチントの公的年金制度は、徐々に縮小してゆき、最終的には全廃すべきです。そして、どうしてもセーフティネットを守りたいのであれば、個人の年齢にかかわらない生活保護制度に一元化するべきなのです。そのほうが国民のすべてにとって、はるかに実りの多い人生をおくれると思うのは私ひとりではないはずです。
義務教育制度のもつ特殊性
最初にズバリいうならば、教育制度はリバタリアンにとって鬼門です。なぜなら初等義務教育の受益者は子どもであり、ほとんど定義によって彼らには十分な判断能力がないからです。そして、判断力がない人間が市場のプレイヤーなのであれば、健全な市場のもつ競争と改善の機能は期待できません。そこにクニガキチントの考えが忍び込みがちなのです。
そこで、レベル1の自由度の教育制度を考えて見ましょう。リバタリアンは子どもに代わって、その親によって学校同士を競合させることが良いと考えます。まず第一に、現在の一人当たりの義務教育費用と同じ金額分のバウチャー(特定目的にのみ使われる金銭証票)を、一人一人の子どもをもつ親に与えます。親は自分が望む学校に子どもを通わせ、学校への支払いはバウチャーによっておこなわれます。学校はバウチャーを政府にもってゆき、換金してもらうことによって、人件費や施設費などを捻出するというわけです。
この制度では、学校はより多くの学生を集めれば、それだけ多くのバウチャーが手に入る、つまり多くの資金を手にすることができます。学校の運営費となるこの資金を、人件費に割り当てるべきか、それともその他の施設費などに割り当てるのかは、個別の学校を運営する校長が決めることになります。
このバウチャー制度の狙いは、教育というあまりにも重要な案件に関しての、効率的な資源の使用を促進するということにあります。有限な資源の利用法について、現場から遠く離れた文部科学省や教育委員会などという中央集権的な組織によって一律に決められるのは、効率的なはずがありません。むしろ、各学校がその個別的な状況に応じて、決めなければならないのです。
もちろん、運営があまりにも拙劣な学校には学生がいかなくなりますから、そんな学校はなくなり、より効率的に学生を教育できる学校が、より高い給与で教員を迎え、より多くの学生を要することになるのです。
こういう提案をすると、かならず「では悪い学校にはいってしまった子どもはどうなるのか」という疑問をあげる人がいます。これはこれでもっともな疑義だとは思います。しかし、それはあまりにも親となっている人びとを愚弄した考えだと思います。
現実には、なにも驚くほどの変化はないでしょう。なぜなら、今でも進学塾のシステムは完全に自由に決められているにもかかわらず、多くの塾の様子はほとんど同じなのです。あえて公立学校と塾とのおおきな違いを述べるなら、児童買春をした教師がいても公立高校では「遺憾なことだ、今後は綱紀をさらに粛正する」などとうそぶいているだけですみますが、塾であれば、ダイレクトに学生離れが起こり、存続の危機にさらされるということぐらいでしょうか。
レベル2の自由度の社会では、学校がどのような内容のことを教えるべきかは各学校、あるいは現実には系列化された学校群が独自に決めるということになるでしょう。また教育費用は親が出すか、あるいは教育に特化した日本育英会のようなNPOや銀行が、才能はあるが、親が子どもを学校にやることができないような子どもを探し出して、融資をして、回収することになるはずです。
まずはじめに、教育内容の自由についてもっと深く考えてみましょう。
最近は日本でも、新自由主義という名の、実は愛国主義的なナショナリズム運動が盛んになっています。彼らは、日本の歴史教科書を、もっと愛国主義的記述に書き換えるべきだというのです。それに対して、国際協調、反戦平和路線をとる人びとは、反戦の誓いを新たにするべく、日本人が大戦中におこなったアジア人への残虐行為を、現行の教科書以上に記述するべきだ主張しています。
この二つは完全に対立しています。いったい、どうするべきなのでしょうか。
リバタリアンは教育内容は各学校が独自に決めればいいのだと主張します。この反対に、教育内容の公定制度については、教科書検定制度などがあったほうが望ましいと思う人は多いでしょう。なんといっても、どんな内容の教科書でもいいというのであれば、教育内容の平等性が担保されない恐れがあるからです。
しかし、私はこれは杞憂だと思います。世界的に標準化された数学、言語、それと論理についての教育はすでに存在しています。アメリカでおこなわれているSATなどがその典型だといえるでしょう。いうまでもなく、学力の世界的な比較は常におこなわれています。そこでは、ある国に特有の歴史教育などはありませんが、それがないからといって世界に通用しない人材になるということは、まったくないのです。
自由な社会では、大学も自由に入学試験の内容を決めることになります。国際的に評価される大学になるために必要な基礎学力は国際バカロレア資格として定められ、内容的には数学と語彙、抽象的論理関係などがすでに確立しているのです。
一般に、知能心理学者の間では、語彙と論理によって構成される語学と、数的センスを扱う数学のみが検定されます。それらの能力のみが人間の知性の発露として扱われるのは、それらが人間に普遍的な能力をあらわしていると考えられているからです。
はっきり言って、私はそもそも歴史など教育する必要はないと思います。それでなくても、日本ではNHKが歴史上の有名人物のドラマを、私たちのポケットから無理やり集めた視聴料でつくっているのです。小学校で習う程度の歴史よりも詳細に日本の歴史を知っても、なにも得るところなどないように思うからです。
おそらく、歴史教育とはつまり民族教育であり、民族の一員としての愛国主義を植えつけるためのシステムなのだと思います。リバタリアンの多くは地球上の誰もが等しく人権を持ち、同じような自己実現の願望を持って生きていると考えるという意味で、人類は完全に同質だと考えます。なぜ、たまたま日本という島に生まれたからといって、その島の歴史をこまごまと覚える必要があるのでしょうか。
人間の学習時間や能力には、限界もあれば、その他のことをするための時間や労力とのトレードオフもあります。アサガオやヒマワリの生長の観察は、島民の共通の話題としてはたしかに重要かもしれませんが、それよりも重要なことははるかにたくさん世界中にあるように思います。
私個人としては、子どもには英語と日本語、そして数学のみを教える必要があると考えています。そのほかのことはすべて、子ども自身が成長して自らやりたいと思ったときにやればいいのです。歴史の詳細な事実を知ることや、科学的なものの見方をすることに遅すぎるということはありません。
つまり、来るべきグローバルな経済社会で創造的で生産的な人間になるためには、おそらくは英語と数学、論理能力だけが基礎になるということなのです。日産を再生させたルノーのCEOであるカルロス・ゴーンはフランスで教育を受けました。レバノン系フランス人である彼の経営能力が世界に通用することを疑う人は、世界に誰もいないでしょう。
現在、日本国内だけでもすでに120校以上の外国人学校があります。インターナショナルスクールもあれば、朝鮮人学校もあります。そして、それらの学校に通う子どもたちは日本人とはだいぶ異なった内容の教育を受けていますが、彼らが将来的に日本人と同じように社会で活躍することに疑う余地はありません。なんといっても100億人が暮らす次の世代の世界の中で、日本人は100人に1人もいないが現実なのです。
それでなくても人間は年をとると、自分の来し方行く末を思い、過去の歴史に興味がわくものです。微に入り細に入った日本列島の歴史などは、郷土の歴史研究として、老後の楽しみにでもとっておけばいいのではないでしょうか。
では最後に、教育費用も完全に親が負担することについてはどうでしょうか。
直ちに懸念されるのは、才能はあるが、親が理解がない、あるいは金銭的に教育費を負担できない、などの理由で進学をあきらめる子どもが出てきてしまうことです。私もこれはもっともな懸念だと思います。
しかし、NPO活動がこれだけ盛んになってきた今、才能ややる気のある子どもを無料で教える、あるいは子ども本人の将来収入から返済してもらう約束で、親に対して長期的な融資をする人たちもでてくるはずです。もっぱら安定志向を追求するような教師たちに占領されるクニガキチントの学校制度がなくなれば、自らの人格的な使命として教育を考える人たちこそ、新たなる自由な社会で主体的に教育にたずさわることでしょう。
あまりにも夢想主義だと思いますか。しかし考えてほしいのです。今野球をやっている多くの少年を指導しているのは、無償でありながら自分の時間を削ってまで、野球が好きな子どもの相手をする野球好きのおじさんたちなのです。彼らがいてこそ、野球の世界大会である2006年のWBCでは、日本チームが世界一の栄冠に輝いたのです。
サッカーにしても、状況は同じです。サッカー少年を指導している人の多くは完全に無給であるにもかかわらず、サッカーというスポーツをより広め、楽しみ、後進を指導するために日夜粉骨砕身しているのです。
多くの人が、社会的には野球よりも勉強のほうが重要だと思っていると思います。であるにもかかわらず、なぜ教育を自発的な使命と考える人たちに任せようとは考えないのでしょうか。どこか遠くに住んでいる官僚の支配のほうが優れていると考える必要などないはずです。
耐震偽装問題をどう考えるか
最後に、わりあいに最近の話題を取り上げてみたいと思います。ここで、2005年におこったマンションやビジネスホテルの耐震偽装事件を試金石にして、リバタリアンな政策を考えてみましょう。
日本では建築基準法が施行されています。大きな建築物に関しては国が定めた最低限度の耐震強度を一級建築士が計算して、保障することになっていたわけです。ところが、姉歯秀次という一級建築士は、木村建設という建築会社やヒューザーというマンション販売会社などと共謀して、耐震基準に満たないビルを大量に建てたのです。
彼らは、単純に耐震構造材を大幅に減らして建築費用を下げ、官庁には、偽りの構造計算書を提出していました。そういった手口で、ビルやマンションを、東京、千葉、神奈川、愛知、三重などに100棟近くも建てていたのです。
このような耐震強度の偽装事件が発覚した後、福岡や札幌でも同じような耐震偽装事件が発覚し、さまざまな論議がなされました。おおむねそこでの制度改革の方向は、今後いかにして国家の建築基準を守ることを確保するのかについて、各種の業法をより厳格化し、専門家を行政に今以上に関与させるべきだというようなものでした。
これはいうまでもなく、福祉国家のますますの肥大化を意味しています。
ここでも新たな社会事件が起こったことをきっかけに、いつものクニガキチントの発想がカマクビをもたげたわけです。ここで、自分の意思を最重要視する多様な個人が存在するという、リバタリアンな社会のあり方について考えてみましょう。
そもそも、国が決めた耐震基準などというのは絶対的なものなのでしょうか。可能性としては、国の想定を越えた大地震というものが起こるかもしれません。また、その逆に、建物の耐用期間にわたって地震などは発生しないかもしれません。ここでは地震が実際に起きた際の損害賠償の責任を厳格に適用することを前提とはなりますが、建物の建築主に対して、自らの責任において自由に耐震強度を選ばせればよいのではないでしょうか。
同じようにマンションの住人もまた、自らの意思で耐震強度の異なったマンションに住めばいいのです。震度7の地震でも倒壊しないような一億を越える高価なマンションに住みたい人もいれば、震度6弱で倒壊すると評価されてもかまわないから、5千万で100平方メートル超の都内のマンションに住みたい人もいるでしょう。
このような考えは、なにか人間の安全を軽視しているようで、気にいらないという人も多いかもしれません。しかし、20年以上前に立てられたビルは、どのみち現在の耐震基準を満たしていませんし、さらに昔のビルはさらに低い基準しか満たしていないのが現実なのです。そのような老朽化したビルは、たしかに危険でしょうが、私たちの日常はそれらの危険と長い間にわたって完全に同居してきているのです。
現在は、国家が耐震基準を一律に定めており、さらにそれに基づいて、それ以上の耐震性能を評価するための、住宅性能表示制度があります。こういった国家による画一的な耐震性の押し付けよりも、各種の審査機関が公表する耐震強度に応じて、より多様なビルの価値を市場原理に任せたほうが、ビルの価格や賃貸料は適切に変化して、人びとの暮らし方の選択は広がるはずです。
現在、地震のリスクもグーグルマップなどに載せて、詳細なハザードマップとして利用することが可能です。自らの判断で震災のリスクを評価して、どの程度のコストでどの程度の強度が自分にとって最適なのかを考えれば、おのずと多様な選択肢が市場によって供給され、それぞれに異なった価値観の人たちが社会に共存できるはずなのです。
このような意見は、なにか突拍子もないように感じるかもしれません。それは実際、私たちが人間の自由という概念を真剣に考えてきたことがないからです。自由には愚行権が含まれます。大地震が起きた際には危険となる構造物にすむこともまた、人間の多様な価値や世界観、世界の認識の自由に属する行為であると考えるべきなのではないでしょうか。
また別の例を挙げるなら、移動様式としてクルマや公共交通機関がある現在、バイクに乗ることは明らかにひじょうに危険な行為です。しかしわれわれはバイクによる移動様式をその趣味性や実用性を勘案して社会的に許しているのです。同じことが、なぜ住宅の耐震性については認められないのでしょうか。
似たような事例として、私自身も毎日利用しているクルマの衝突安全性について考えてみましょう。私はトヨタのクルマに乗っていますが、あるいはニッサンのほうがある種の衝突安全性にすぐれているかもしれません。ある種の技術が衝突安全性を突き詰めるのであれば、人命はたしかに尊重しているようにも思えますが、そもそも値段が高すぎると判断すれば、私はそういう安全性をそなえたクルマをあきらめざるをえないでしょう。
また、安全性の基準もユーロNCAPのようなヨーロッパの基準もあれば、アメリカのNPOのものもあります。日本の国土交通省の公表している基準が絶対なわけではないことなど、いまさらいうまでもありません。もちろん、各自動車会社もそれぞれ社内独自の安全基準をもっているでしょう。
しかし現実に、私はトヨタのクルマに命を預けて毎日高速道路を通勤しているのです。ひとりマンションの耐震性基準だけが、私たちの日常生活の安全性を保障しているわけではありません。冷静に考えて、多様な耐震基準や、それぞれの耐震・免震技術を経済的に評価するべきです。
私が理解しているところでは、趣味としてのハンググライダーやパラグライダーなどは、明らかにかなり高い死亡リスク、あるいは障害のリスクをもっています。また、冬山登山が危険であり、遭難した場合には、救助隊の出動をはじめとして大きな社会的な損失となることは今さらいうまでもないでしょう。とはいえ、だからといってこれらのリスクスポーツを全面的に禁止するべきだという人はいないと思います。こうした危険な趣味を生きがいとしている多くの人たちの存在が現実にあり、それは私たちの多様で豊かな生活の一部となっているのです。
なぜ、マンションやビジネスホテルの耐震性だけが、それほど重要なのでしょうか。部屋の広さや室内の快適さと同じように、複数の客観的な格付け機関に情報の提供をさせて、消費者に選ばせればいいと思います。そうすれば、今よりもはるかに価値観の多様性を認めながら、同時に金銭的に余裕のない人々にとっても暮らしやすい社会になるのです。