採録
6、出現する脱国家主義
国際社会という言葉と主権国家
日ごろ、ニュースなどで、「国際社会」 という言葉をよく聞きますが、この言葉からは、どんなイメージが想像されるでしょうか。いわく「日本は国際社会の中でもっと重要な立場を占めるべきだ」とか、あるいは「イランの核開発は、国際社会の反発を招いている」とか、そういった表現が思い浮かびます。
つまり、この国際社会という言葉は、そもそも国際的という表現自体が国、あるいは主権国家を前提とした言葉なのです。だから国際社会の構成員は、当然に現在世界に100以上存在する主権国家だということになります。
地球上にはすでに67億人もの人びとが日々の生活を営んでいます。そして、確かにわれわれ一人一人にとって、地球に生きる市民としてのもっとも重要なの接点の一つは、国家を通じたものであるのは間違いありません。
たとえば、BSE問題によってアメリカ産の牛肉は、ほとんど全面的に日本に輸入できなくなりましたが、これは日本とアメリカという国家間での取り決めによるものです。個人や法人としての輸入業者や輸出業者は、それぞれの所属する主権国家によって違法とされることはできないのです。
中国では、アメリカの企業であるグーグルやヤフーでさえも、当局からの検閲を受けています。また日本人である私がアメリカやドイツを旅行しようとするとき、日本国民としての証明であるパスポートがなくては入国すら許されません。
この意味で、主権国家によって南極を除くほぼすべての地球地表の分割がおこなわれており、それに伴って、主にその地に居住する個人は、基本的にある主権国家の一員となります。これは20世紀に完成した枠組みである、主権国家によって構成される国際社会という考え方です。
20世紀には、主権国家がもっとも重要であり、主権国家間の話し合いで世界のものごとが決められていったのです。二度の世界大戦を契機に発足した、国際連盟や国際連合、また地域協定としてのEUやASEAN、NAFTAなどは国家をその構成員としたものです。また二国間の自由貿易協定なども、当然に国家がその取り決めの主体であることもいうまでもありません。
しかし、このような20世紀的な国家を中心とする枠組みは、国家を超えた力を持ちつつある国際的な企業や、非営利組織、さらに個人にいたるまで、多くの活動主体、あらゆる段階からの挑戦を受けています。
いうならば、主権国家による人類の分断と、主権国家を通じての人びとの交渉という枠組みは、インターネットのブロードバンド化や、移動時間や費用を劇的に低下させたジャンボジェット機の出現によって崩壊しつつあるといってもいいでしょう。
個人の力の増大が生んだヘッジ・ファンド
1997年、タイの通貨バーツの暴落に始まったアジアの金融危機は、たちまちマレーシア、韓国などに飛び火し、最後にはアルゼンチンからロシアにいたるまでの世界的な規模での経済危機へと発展しました。
このために各国の経済は大混乱し、たとえばタイ・バーツやマレーシア・リンギットなどの通貨価値は半減しました。各国の証券市場も暴落し、タイでは証券市場の総額が10分の一程度にまで下落したのです。当然ながら、このような大混乱は実体経済にもおよび、マレーシアの経済は翌年7パーセント近いマイナス成長となったほどです。
この金融危機を仕掛けたとされるのが、著名な投資家であるジョージ・ソロスの率いるクァンタムファンドをはじめとする、英米系のヘッジファンドです。実際にはもちろんソロス一人が始めたわけではないのでしょうが、何兆円という資産を運用するファンドマネージャーたちの判断がアジアの経済危機の引き金となったらしいことには十分な証拠があります。
とはいえ、いったい、この経済危機の背景にはどのような事態があったのでしょうか。
そもそも1990年代の前半、ASEAN地域をはじめとするアジア地域は、全般的な高度経済成長の段階にありました。当時、バブルの処理にてこずっていた日本がカヤの外にあったのはやむをえないとして、タイやマレーシア、インドネシア、韓国などは10パーセント近い好景気に沸いていたのです。
このような経済成長を支えていたのは、主に輸出産業でした。1987年のプラザ合意以来、円高、や台湾ドル高が進み、その結果多くの日本企業、台湾企業が東南アジア諸国を生産基地として活用するために直接投資をおこなったのです。その結果、東南アジア諸国での軽工業輸出品はひじょうに国際競争力を高め、大量生産されて世界に輸出されるようになったのです。
しかし、こういった直接投資が安価な労働力を利用するためには、国内賃金が低いことだけではなく、その国の通貨が安定している必要があります。そのために各国はアメリカドルと自国の通貨をリンクさせたのです。
しかしこのような制度ではアメリカが強いドル政策をとると、自国の通貨まで自動的に交換レートが上がってしまいます。90年代の後半はドルの価値が上がったために、タイやインドネシアの通貨は過大に評価されることになってしまったのです。
このような行き過ぎた通貨の高値は国の経済力に見合ったものでない以上、長続きすることはできません。早晩なんらかの調整局面が訪れることは、多くの外国為替市場のプレイヤーには明らかでした。そのきっかけをつくったのが、ジョージ・ソロスという投機家だったといえるでしょう。
実際、ソロスはタイやマレーシアという国家に挑戦した個人だといってもいいでしょう。結果として東南アジアの経済は大混乱に陥ったという意味で、彼に対する倫理的な非難は後を絶ちません。しかし、私が考えるところでは、いうならば国家主義こそが問題を引き起こした本質だったのだと思います。つまり、ある特定の国家が自国の為替レートを思うがままに決めるという、他国民や自国民の利益について真剣に考えようとしない独断的な姿勢が、国際市場で否定されたと考えるべきなのです。
ともあれ、国家が決めたことを個人が覆すことができないということはなくなりました。英米を中心とする金融自由主義を背景にしているとはいえ、国家と対等にわたりあう個人の出現は新しいものです。それは、ヨーロッパ中世のメディチ家やフッガー家、アジアの植民地経営にあたった東インド会社以来、近代の国家絶対主義時代にはなかった現代的な現象だといえるのです。
為替レートの固定の何が問題なのか?
ところで、為替レートを国家が決めるのはあたり前のことだ、何が悪いのだ、とおっしゃる方もいるでしょう。そこで、ここで為替レートの固定がもつ意味について、もう少し詳しく検討してみましょう。
1971年のニクソン・ショックから世界的に固定相場制度が崩れ始め、73年に変動相場制が主要先進国間で採用される以前は、日本では日銀が1ドル360円の公定価格で外貨交換をおこなっていました。実際の円の実力が高いにもかかわらず、輸出産業の競争力を高めたい場合、日本政府は円の価格、つまり対ドルレートを低く維持することになります。
このような場合には、日本の輸出産業は低価格で製品を作ることができるのですから、円を買ってドルを売りたい人は増えるでしょう。ドルを売る人のほうが多いのですから、ドルは日銀で円と交換され、日銀にはドルが外貨準備高として大量に保有されることになります。
この外貨準備高の増加というのは、その後日本円が弱くなるようなことでもあれば、再び減少することになるため、何の問題もありません。しかし、実際には、多くの通貨の価値は、趨勢的に大きく変化していきます。ドルの外貨準備高が増加するのなら、それは実は円が過小に評価されていることを意味します。
このような状態では、円はいつか切り上げる必要が生じるはずです。永遠に円を過小評価し続けけることはできないからです。どこかの時点で、大きな投機的な円買いがおこり、円は安値を維持できなくなってしまうのです。
とまあ、外国為替の固定相場制度が問題であることは、ざっとお分かりになると思います。
ではいったい、固定相場制度をとると、誰が損得をするのでしょうか。
ずばり端的にいって、損をするのは国の中央銀行であり、結局それは当該国家の国民負担になります。その反対に、得をするのはヘッジファンドなどの投機に成功した人びとであるということになります。
これを2000年以降、大きな話題になっている中国元について考えてみましょう。中国元は長い間、輸出産業を育成するために為替レートが過小に設定されてきました。おかげで中国は輸出産業を中心に高度成長を続けているわけです。しかし、誰も損をしていないわけではありません。
中国にも富裕な所得者層は存在しており、彼らの多くは日本や韓国、欧米の自動車やテレビなどを購入したいと思っているはずです。為替レートの人為的な過小評価は、中国で輸入製品を買う人びとの実質的な所得を減少させ、輸出産業で働く人や企業の株主に利益を移転しているのです。
このような国家による作為が永続するとはかぎりません。中国は経済大国になりましたが、つねに投機家からの、中国元の切り上げ予想という圧力を受け続けているのです。そして、投機家はかならずしも個人にとって悪いことをしているわけではないのです。それは国家によってゆがめられた所得配分を、本来あるべき姿にすることから利益を引き出しているのです。
最後に、日本のような変動相場制をとっている国でも、政治家や日銀総裁が、やれ「1ドル120円が望ましい」だの、いや「1ドル100円程度」だのという発言をすることがしばしばです。つまり変動相場制の中でも、ターゲット目標を定めるような、日銀をはじめとする世界の中央銀行団による管理主義的な為替操作がおこなわれているのが実態なのです。
これもまた有害無益なので、即刻やめるべきです。
円が上がりすぎて、日銀総裁が「1ドル120円が望ましい」といって円売り介入をするような状態であるなら、多くの投機家は円の価値がそれよりも大きいはずだと考えて円買いを続けるでしょう。損をするのは日銀で、得をするのは投機家です。いうまでもなく、反対の場合でも、日銀は損をして投機家が得をするのは同じです。
日銀は日銀券、つまりお札を印刷することによって利益を得ることが合法化されている、いわば国家の出先機関です。日銀の損失はつまり、国民一人一人の損失なのです。日銀が損をすることがわかっているような無意味な為替介入をすれば、より多くの投機家が儲けることになり、投機家の数は増え、市場はますます乱高下をして、日銀に入るはずだった金を潜在的に負担することになる国民は損をするのです。
まったく、完全にバカげています。
経済学者でさえも、為替相場への介入が中央銀行を通じて当該国民の不利益となっていることについては、ほとんど等閑視しているのです。ソロスも指摘するように、世界の為替市場ではかならず負けてくれるバカなプレイヤーが大量に存在します。バカは各国の中央銀行であり、各国民の潜在利益を投機家にばら撒くという愚劣極まりない行為を続けているのです。
世界的な投資家や企業家というスターたち
著名な投資家たちは、いまや世界の大衆のスターダムにのし上がったということができます。ジョージ・ソロスは若い時代にロンドン大学で学び、科学の「反証主義理論」で知られる著名な科学哲学者カール・ポパーから大きな影響を受けたといいます。
ポパーはすでに1945年にその著『開かれた社会とその敵』において、国家主導の社会主義は「閉じた社会」であることを喝破しました。社会主義にような中央集権的な閉じた社会における科学は、国家が何が正しいと考えるべきなのかまでも国民に押し付けます。その結果、正統とされた学説は、新しいアイデアからの挑戦をうけつけないという意味での閉鎖的・教条主義に陥って、必然的に進歩が停滞してしまうと主張したのです。
たとえば、ソヴィエトで主流派であったルイセンコの進化論があります。ルイセンコは、小麦を冷凍保存することによって、寒冷地適応させることができるという、独自の奇妙な進化論を提唱しました。その後、政敵をつぎつぎと追い払い、ソヴィエトにおける生物学の主流となったのです。
しかし、その学説は科学というよりも政治思想そのものであり、政治的な希望から生まれた異形の生物学だったのです。
この点に関して、ポパーが、同じウィーン出身のハイエクの『隷従への道』と同じ戦争の時期に、同じような反社会主義的な主張をしているというのは驚くべき知的相似だと思います。彼らの思想は、その後30年以上も間、社会主義思想の蔓延と共に忘れ去られていたにもかかわらず、現代の古典として力強く復活しているのです。
さて、ソロスはその著書『グローバル資本主義の危機』の中で、国家が主導する経済制度には必ず矛盾が生じ、そしてそこから利益を生み出すことができると気づいたのだと書いています。社会哲学のような形而上学から、錬金術のような投資活動の指針を得るというのは、私には大きな驚きです。もちろん、単に私の思考がそこまで及ばなかっただけなのでしょう。
投資の世界のスターはソロスだけではありません。過去30年間にわたって年間14パーセント以上の利回りを実現してきたといわれるウォーレン・バフェットもまた、ヘッジファンドを運用する大スターだといえるでしょう。
バフェットは投資理論の先駆者であるベンジャミン・グレアムに学び、コカ・コーラやディズニーなどの株式で成功した著名投資家で、フォーブズ誌による2003年の長者番付ではビル・ゲイツについで第2位でした。ちなみに30年間、年率14パーセントの運用が可能なら、その資産は100万倍にもなります。なるほど、バフェットを目指す投資本は、アメリカでも日本でもそれこそ山のようにあるわけです。
変わったところでは、世界中を冒険旅行をしながら政治経済情勢を読み解き、それによって投資判断をして成功をしているジム・ロジャースがいます。彼は当初、ソロスとともにクァンタム・ファンドを起こして軌道に乗せた人物ですが、それに飽き足らず、冒険家もかねた商品投資活動に切りかえての人生を送っているというわけです。
もちろん資本主義の社会では、企業家こそが大スターです。マイクロソフトのビル・ゲイツやアップルのスティーブ・ジョブスには、世界中に多くの信者がいるといっても過言ではないでしょう。
しかし、これらの企業活動には、素人には容易に理解できないレベルの技術的・実態的な経済活動が伴っており、誰にでもできるというようなこととは思われません。
それに比べると、これらの成長企業への投資活動は少ない資本でも可能ですし、そのリターンも企業家と同じように莫大なものです。こういう理由から、投資活動家もまた、大衆にとっては企業家と同じほどに受けているのではないかと思われるのです。つまり投資活動は伸びる企業を「つくる」必要はなく、どの企業が伸びるのかを「見抜く」だけでいいのです。取り立てて特技のない庶民にとっては、よりお手軽だと感じられるのではないでしょうか。
ゲイツやバフェットのような世界的な資産家はフォーブスをはじめとする経済誌、経済界では大スターですが、国家によるパターナリズムを好むような知識人には受けが悪いように思われます。それは経済活動が本質的に利己主義的で、金儲けの拝金主義的であるのに対して、理想的な政治活動は社会的・利他主義的であるという考えによるものだと思います。それに加えて、資本家をスター扱いすることは、それ自体が拝金主義、投機主義を蔓延させるのではないかという危惧があるからでしょう。
私はこういった考えはまったく間違っていると思います。
実際、ソロスやバフェットは世界的な規模で、独自の信念に基づく数多くの慈善事業をおこなっています。世界中の政治家は、他人のポケットからお金を取って、その金を外交ルートを通して他国にばら撒くことには熱心ですが、自分の個人資産を他国の慈善事業に寄付したなどという話はトンと聞きません。これはいったい私の寡聞によるものなのでしょうか。
かつて、経済に対する政治的な介入主義を正当化したケインズ経済学が全盛だったときにおいてさえも、経済学者ミルトン・フリードマンは声高に反対を唱えていました。すでに彼は、1962年の『資本主義と自由』において、政治的な権力と経済的な権力は多焦点的に並存するのが望ましいと主張していたのです。
政治的な権力のみが存在する社会では、単純に考えても、それに反対する勢力が存在し得ない以上、個人の経済的・精神的な自由はより圧殺されやすくなります。かつてソヴィエトの書記長だったフルシチョフは1962年の有名な「ロバの尻尾」事件で、シュール・レアリズムやポップ・アートなどを描く前衛芸術家の絵画を見て、まるでロバの尻尾で描いた絵だ」と酷評しました。
事実上の独裁者に否定されて以降、前衛絵画は公式的には認められなくなり、前衛芸術を探求する画家たちは、他の音楽などの活動に向かわざるをえなかったのです。
現在の中国でも、インターネット上のサイトでさえも、かつての天安門事件を知ることも論じることも、その惨劇を閲覧することもできません。北朝鮮にいたっては、そもそも物質的なレベルでインターネットに一般市民がアクセスする基盤がありません。
現在、インターネットの世界的な普及によって世界はより一体化しているにもかかわらず、世界中で民族主義はますます排外的になり、感情的に高まっているのが現実です。日本でも反中国、反韓国の掲示板が目に付きます。
このような時代にこそ、日本のような成熟した社会では、孫正義のように韓国人から帰化した成功者や、中国人とのハーフの王貞治、中華の鉄人陳健一のような尊敬される中国系日本人がいるほうが自然で望ましいように思います。そのほうが仮に政治的に排外運動が起こったとしても、少しでも穏やかなものとなるのではないでしょうか。
とはいえ、現実に起こっている日本人の「国家離れ」は、このような自由を求めた高尚な理念に基づくものではないようです。それはむしろ、以下に述べるように、過去の赤字財政のつけが回ってきて、社会保障制度が維持できなくなったということにあるのです。
年金制度の崩壊と金持ち本
日本の出生率は2004年に1.29でしたが、この数字に代表されるような急速な少子高齢化をうけて、年金制度が崩壊することを恐れる人たちが急増しています。それも合理的に考えてみれば、なんら無理はありません。
そもそも、世界各国でおこなわれている年金制度は、自分が払い込んだ保険料を何らかの形で運用して引退後に受け取るという、いわゆる貯蓄型ではありません。そうではなくて、現在の勤労世代から徴収された保険料は、その時点での高齢者世代に年金として再配分されるという、いわゆる賦課方式なのです。
賦課方式といえばやや聞こえはいいかもしれませんが、つまりこの制度では年金制度を維持するためには、つねに次世代の勤労所得を当てにする必要があります。この意味では、本質的には、ネズミ講そのものなのです。
次の世代が増えれば年金額を増やすことが可能ですが、少子化が急速にすすみ、次の世代が先細ってゆくような社会では、約束した給付額を維持することはできないのです。
90年代からの指摘されていた懸念が一気に現実味を帯びてくると、この現実を直視した人たちは安穏とはしていられません。「自分年金」などと称して、国の年金制度に頼らなくても生きてゆけるように、老後に備えての貯蓄を考えるようになったのです。
まず始まったのが、『金持ち父さん貧乏父さん』などに代表される、いわゆる金持ち本のベストセラー化です。『金持ち父さん』の主張はきわめて単純で、つまり所得から税金を持っていかれ、その残りから貯蓄をするようなサラリーマンはやめて、企業を起こして節税しろというものです。
サラリーマンは所得税を源泉徴収されているので税務当局から逃げようがありませんが、個人企業は経費として多くの生活費を税引き前に使うことができるのです。同じことは野口悠紀夫の『超納税法』にも指南されており、よく知られた指摘だといえるでしょう。みずぼらしい個人商店の前に、多くの無意味に高額な外車、多くはメルセデス・ベンツやBMWが駐車されているのは、彼らがクルマの代金を税引き前の所得から支払えるからなのです。つまり、そういった高級外車の購入代金の半額は、国家が負担してくれているといえるでしょう。
とはいえ、現実に個人が企業を起こすには大きなリスクがあります。安定志向の一般サラリーマンではとてもできないでしょう。超納税法で勧められている、サラリーマンのフリーエージェント化もまた現実的ではありません。とくにこれといった価値もない大方のサラリーマンにとっては、とてもじゃないが雇用形態について会社と交渉できるような立場にはないからです。
ちょうど、こういった閉塞的な状況において、株式の手数料が自由化され、時間的にも場所的にも敷居の低いインターネット取引が可能になりました。こうなれば、こうした金持ち本を読んでいた人びとが、個人投資家となっていったのはごく自然な流れです。バブルの後遺症からの日本経済の回復ともあいまって、2002年以降、長らく続く株価の上昇が起こっているというわけです。
なにしろ書店に行けば、「ネットトレードでラクラク一億円」「ネットで目指せ3億円」「主婦の小遣い月額10万円」と題されたような、お手軽な株取引のムックが大量に平積みされているのですから。
つまり、個人投資ブームはインターネットの普及によるものでもあります。しかし同時に、日本の年金制度の破綻がなければ、これほど急速な社会現象とまではならなかったこともまた間違いないのです。日本人が国家というものに距離を感じ始めたとするなら、それは福祉制度の崩壊に起因しているといえるのではないでしょうか。
タックス・ヘイヴンの繁栄
ところで、前述したような国家に挑戦できるほどのヘッジファンドは、その多くがケイマン諸島やヴァージンアイランドなどのカリブ海沿岸に本拠を構えています。これはこれらの島々では資産運用の結果として得られるキャピタル・ゲインに対して税金がかからないか、あるいはその税率がきわめて低いためです。
一般に、こういった地域をタックス・ヘイブン(租税回避地)と呼びます。
タックス・ヘイブンはヨーロッパでは、ルクセンブルクやモナコが有名ですが、税率が低いという意味ではスイスもある程度あてはまるといえます。だから資産からの利子所得だけで生きていけるような富裕なヨーロッパ人の多くは、これらの国々に住むことになります。
アメリカ人にとってのタックス・ヘイブンとしては、カリブ海のケイマン諸島が有名です。カリブ海沿岸の島嶼地域では、とくにこれといった産業もありません。アメリカの金融機関が低い税率にひかれて本拠を置いてくれれば、自国民にもある程度、建築業や多様なサービス産業の発展による恩恵を受けることができるというわけです。
アジアのタックス・ヘイブンといえば、ながらくイギリスによって統治されていた香港です。香港ではキャピタル・ゲインに対する課税がありません。そのため多くのアジア人富裕層が、資産の運用先として香港の香港・上海銀行やシティバンクなどに口座を持っています。おそらく、これから日本の財政危機が現実味を帯びるにしたがって、日本人の富裕層にもインフレ課税の回避、さらには老後の海外移住のために香港に資産を移す人が急増するのではないでしょうか。
とはいえ、香港は1997年に、イギリスから中国に返還されました。中国とイギリスの間では、返還に際して、2047年までの50年間は資本主義体制が維持されるという取り決めがなされました。とはいえ、その後のことはわかりません。
多くの人びとは、現在のままの自由な経済体制が維持される可能性は薄いと考えています。おそらくは共産主義独裁の中国政府は、中国国内と同じ制度を香港に適用するのではないでしょうか。その時、資産家にとって香港は安全でも自由でもなくなってしまいます。
私が思うところでは、近いうちにアジアの島嶼地域のどこかの国が、香港の中国化以降を見越して、新たなタックス・ヘイブンとなるのではないでしょうか。それはミクロネシアやポリネシアに無数に存在する島嶼国家の一つだと思います。どのみち、大きな観光資源もない島嶼国家では、大きな産業的発展は望めないからです。
今後、東アジア地域では急速に資本主義が発達するでしょう。当然、資産を国家の直接の監督下にはおきたくないという資産家も激増するはずです。とくに中国人や東南アジアの華僑はもともと国家というものをあまり信用していません。いつでも持ち逃げができるように金を買っておくのが普通であることはよく知られています。
太平洋の島国が、アジアの金持ちのためにタックス・ヘイブンとなることを選べば、香港が中国政府の完全な支配下に入るまでには、それなりの金融産業が発展するのではないでしょうか。ちょうど欧米人にとってのカリブ海の諸国やモナコ公国と同じように、主権国家が乱立する現在の国際社会の枠組みでは、そのような国の存在は不可避なように思われます。
税を払わない永遠の旅行者
問題は資産が国家を越えて、より安全な場所に流れていくだけではありません。
今後、国際的な業務が増えるにしたがって、より多くの知的労働者が国をまたいで経済活動をおこなうことになります。日本の税法では居住者に対してのみ所得税がかかります。そして、少なくとも一年以上日本を離れて、日本に居所を持たなくなれば、国税上の非居住者とみなされることになります。その後は半年まで日本に滞在しても、非居住者の地位を維持することが認められています。
このような制度では、ある程度名声を確立したプライベート・バンカーや小説家、ミュージシャンなどは、主たる住所を香港などの国に移し、シンガポールや日本の間を行き来していれば、どの国に対しても所得税を払わないということが可能になります。
どの国でも年収が高いほど、所得税には高い税率を課す傾向があります。ファンドの運用によって何億も稼ぐような有能な個人にとっては、このような高額の所得税を払わないための移動に、異なった3カ国に居所を持つというのは何の負担でもないでしょう。
このような、所得税を払わずに各国を行き来して生活をしている人たちは、PT(Perpetual Travelers)と呼ばれます。
PTの概念を打ち出したのは、W.G.ヒル博士です。彼は1989 年の著書『P.T.』において自由なライフスタイルを実現するためには、居住、労働、余暇、投資などに5つの国家を利用することを提唱しました。この考え方は富裕層を中心に世界に広がり、いまでは日本でも『PT』という漫画まで出ているほどです。
また、日本でも始まった海外投資ブームを受けて、『ゴミ投資家のための海外投資』シリーズにも根強い支持があります。これは、海外の投資事情に詳しい作家である橘玲などによって編集されているものです。
橘はベストセラー『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』の著者です。彼は、雇用保険制度に基づく失業手当を機会主義的に利用する、定年退職者やコトブキ退社の専業主婦、フリーターなどの現状を説明した後に、問いかけるのです。
「雇用保険に象徴されているように、崩壊へと向かう日本的システムは、黄金の羽根を撒き散らしながら堕ちていく天使に似ています。「弱者保護」を名目にして日本国がばら撒く黄金の羽根に、多くの人が群がっています。しかしその一方には、必死になって羽根を紡いでいる人もいるのです。
ことの善悪を問うているのではありません。それは評論家の仕事であり、個人の人生には何の関係もないことです。
日本国の制度は大きく歪み、傾いています。その歪みから恩恵を受ける人が生まれ、他方では収奪される人がいます。今後この格差はますます広がっていき、やがては修復不可能なものになるでしょう。
その時、あなたはどちら側に立っているのでしょうか?」
ここには国家という存在に対する徹底的に冷笑的な見方があります。それはつまり、ゆがみのない完全な制度など存在しないのであるから、その歪みを個人として利用しない手はないとでも要約されえる態度でしょうか。
さて、国家を第一の主体と考えるような常識的な方の多くは、ここで紹介したPTなどは単なる脱税者にすぎないのではないかといぶかしむことだと思います。しかし、彼らには彼らなりの世界観、あるいは哲学があり、実際、それはリバタリアニズムと近接したものです。
そもそも彼らは、主権は国家にあるのではなく、一人一人の個人にあると考えます。とすれば、国家が個人の財産を税金として奪う正当な権利など、もともと存在しないということになります。
考えてみてください。たとえば、北朝鮮という主権国家が日本という主権国家に対して、日本はGDPが大きいからといって税金をかけることが実際にできるでしょうか。あるいは、そのようなことが暴力的・軍事的に可能であったとしても、帝国主義の時代ならいざ知らず、現代の国際社会において道徳的に是認できるものでしょうか。
主権が国家ではなくて個人にあるとするなら、個人がその収入や資産から税金を徴収されるのはまったくおかしな話だということになります。だから主権が個人にあるというのは、昔からあるコスモポリタニズムを、究極的なまでに個人主義的、超国家的にした社会哲学だといえるのです。
とはいえ、私自身はこのような考え方に対しては、ある程度の留保が必要なのではないかと考えています。
なぜなら、PTは各国で生活をして経済活動をおこなっているのが普通ですが、そのような生活や経済活動の安全性、実効性を担保するような警察制度や法制度、裁判制度を利用はするものの、その維持費用としての税金は支払っていないからです。
もちろん、先進諸国ではかなり高率の付加価値税(日本でいう消費税)を課していますから、ある程度は税金を治安維持費用として支払っているとはいえるでしょう。しかし、ほとんどの先進国でも所得税が主な税金であるという現実に照らせば、消費税などの付加価値税だけでは、PTの生活を快適なものにしている社会基盤の整備のための費用としては、十分ではないことに疑いはありません。
しかし、この点を差し引いても、主権は国家という集団にあるのではなく、個人が絶対的な権利として主権をもっているのだという考えには、大きな説得力があると思います。自由を倫理的な至上の価値だとした代表的なリバタリアンに、マレー・ロスバードがいます。彼は純粋に道徳的な見地から、国家とは個人の財産を暴力的に強奪する強盗団でしかないと評価しています。そして『自由の倫理学』では、これを突き詰めて、国家を即時消滅させるために、すべての税は即座に支払いを停止することこそが、倫理的に正しい生き方なのだと主張しているのです。
財政破綻で日本脱出
とはいえ、日本ではPTは、いまだにほとんど知られていない考えだと思います。
一つの理由は、ほとんどの日本人が外国語を話せないという単純な事実にあります。日本人として生まれて普通教育を受けた人のほとんどは、実用的レベルの英語を使いこなすことができません。もちろん日常の会話もそうですし、さらには銀行その他の政府関係の手続きの公式書類に使われる用語などは、文学重視の大学受験の内容に入っていないからです。
これに対して、英米系の人びとには、生まれたときから、他国に移住するというオプションがつねに意識の中にあります。アメリカに生まれたとしても、英語が公用語である国には隣国カナダやオーストラリア、イギリス、ニュージーランドからフィジー、インドからシンガポールまで全地球上に数多く存在します。これらの国への移住はきわめて容易です。また英語が通じるという程度であれば、ほとんど全世界の国に住むことができるでしょう。つい最近も、ブッシュ大統領のイラク侵攻を批判して、アメリカ人の反戦運動家たちのカナダへの移住運動が起こったほどです。
二つ目の理由もほとんど同じようなことですが、日本人の多くは友人も親戚もすべて日本に住んでいるという事実にあります。たしかに抽象的にはオーストラリアなどに移民するというのは不可能ではないかもしれません。とはいえ、友人もいない国に一人で、あるいは家族を連れて移住するというのは、やはり魅力的な人生の選択肢ではないでしょう。
しかし、このような障碍があるにもかかわらず、早期退職をして、あるいは定年退職金をもって、定年後は外国に暮らそうという人々が増えているの事実です。
それもこれも、日本の財政が破綻寸前であることが、誰の目にも明らかになってきたためです。つまり資産家や、そこまでいかなくとも多くの小金持ちは、予想される過酷な資産課税を避けるために、自らの金融資産の逃避(キャピタル・フライト)先を確保する必要を感じているのです。
書店にいってみてください。今後予想される財政破綻や資産の凍結について書かれた本は、それこそ数えきらないほど平積みされています。2006年1月に私がアマゾンで調べてみたところでも、国家破綻、財政破綻、年金破綻などの書籍は合計40冊を越えていました。これはとりもなおさず、それほど多くの日本人が、国家財政の破綻が近づいていると恐れている証拠だといえるでしょう。
多くの破綻本のなかで、もっとも影響力があったものの一つに、元日銀マンの木村剛が2001年に書いた『キャピタル・フライト 円が日本を見棄てる』があると思います。いうまでもなく、木村剛という人物は、小泉内閣の行政改革路線を推し進めた竹中平蔵大臣と懇意だと伝えられており、その経済関与のうわさが株価の下落につながったほど影響力のあるエコノミストです。
彼は「キャピタル・フライトの危機はすでに目の前に鎮座している。いつ何時、円の大脱走―エクソダス―が始まるかもしれないのだ」という緊張感ある表現で、国家の財政危機が生み出すであろう資産の国外流出を予測しています。
もちろん、それから5年以上がたちましたが、彼の予想ははずれています。私は日本人の国家主義的なメンタリティや外国語能力の低さからして、キャピタル・フライトは日本経済を揺るがすような規模ではおきないと思っています。
しかし、それでも日本を脱出する人びとは確実に増えています。年金生活者のどれだけかは生活費の安い、タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピンなどに移住してゆくことでしょう。
もっと長期的には英語教育がいまよりもはるかに普及して、日本の上層階級、あるいは高学歴の人々が英語を自由に操るときが来れば、PTというライフスタイルを実現する日本人は次第に増えてゆくはずです。
現在の国家はたしかに、国民生活の全般に関して到底払拭できないほどの影響力をもっています。しかし、それは21世紀にも同じであるという保証はないように思われます。はっきりいうなら、能力の高い人、資産の多い人ほど居住する、あるいは帰属する国家を選ぶようになるでしょう。
世界の共通言語がますます英語に統一されてゆくにつれて、そして飛行機の速度が上がり、より多くの空港に頻繁に国際便が就航するにつれて、国家は個人に対して絶対的な支配力を持つ存在から、むしろ公共サービスの提供者として、保険会社、警備会社のように個人から選ばれる存在へと変貌せざるをえないのではないでしょうか。
実際、スイスの多くの地域では、金持ちほど税率が安いシステムをとっています。そうすることによって、ヨーロッパ中から金持ちの移住を促進し、結果として税収をあげることができるのです。近い将来には、アジア全体での移住を見越して、日本でも金持ちを優遇して、社会の活性化を図ろうとする地域が出てくるのではないでしょうか。
各種の格付け機関と国家
個人の力が科学技術の進歩によって増大するにしたがって、国家の力は相対的なものにならざるをえません。つまり、個々の国家もまた、地球上に存在する数多くの団体のなかの一つに過ぎないのです。このことを雄弁に語っているのが、各国が発行する国債も、各種の格付け機関によってその信用性が評価されているという事実です。
たとえば、日本政府の発行する国債について考えて見ましょう。国債というのは国家が発行する債務証券であり、3年なり、10年なりの期日がくれば償還されることになっています。国家政府が金銭の支払い約束をしているのです。
しかし、歴史的に見ると、多くの国家が債務不履行に陥っています。遠くは日本軍が発行した軍票から、近くはメキシコや2002年のアルゼンチンの国債の支払い停止に至るまで、多くの国家がその債務の履行を放棄しているのが現実です。
ひるがえって、現在の日本はどうでしょうか。政府の累積債務は1000兆円に迫っていますが、これは日本のGDPが500兆円であることを考えると、たいへんなものです。国民一人一人が二年間もただ働きをして返済する必要があるほどの量なのです。常識的に考えれば、将来的にその全額が徴税されて返済されるということは不可能でしょう。
このような見解は、当然ながらスタンダード・アンド・プアーズ(S&P)やムーディーズなどのアメリカ系の主要な格付け機関の認識とも一致します。実際2002年にはS&Pが日本国債をAA-に、ムーディーズはA2に引き下げています。これは先進国中最低であり、アフリカのボツワナなどの途上国と同じなのです。もっと端的にいえば、全額返済の見込みがほとんどないということを意味しているといえるでしょう。
日本人が閉じた世界にいるのは、ここでも同じです。このような日本国債の格付けに対して、自民党の政治家や財務省は繰り返し、その不合理性を訴えています。これに呼応して、日本国内にある格付投資情報センターや日本格付研究所などは、日本の国債をAAAという最高位にランクし続けています。
日本という国家を離れた目から見ると、外国の評価に対しての日本国内からの反発自体に日本人の能天気さがあらわれています。もっとも重要なことは、日本人が日本という国家の絶対性という枠組みから、視点を離すことができないということなのです。
国家は確かに徴税権を有しており、日本のように豊かな国の国民は資産を持っています。しかし民主主義の政治では国税の苛斂誅求はほとんど不可能なので、インフレによって国債の価値を棒引きにしてゆくしかありません。国家は国際経済の中では、あくまでも一つのプレイヤーでしかないのです。
かりに、私のもっている株式や会社債権が「投機的」の格付けをもらったら、どうすればいいのでしょうか。おそらく、さらにひどい状態になる前にそれらの証券を売ることによって、さらなる被害の拡大を防ごうとすると思います。
国家の格付けでも同じことだと思います。格付けの低い国家では、将来的にはインフレによる事実上の大増税が予想されます。その時、金持ちが自分の財産に受ける被害の拡大を恐れて、日本から逃げ出すような国家運営はさけるべきです。それでは、長期的に日本社会を発展させる原動力となる、もっとも優秀な人びとから真っ先に日本を脱出してしまうことになってしまうからです。
主権国家の並存の意味
これまで私は、国家は地球上に存在する多様な団体の一つでしかない、ということを述べてきました。そして、実際に個別の国家は、地球上において絶対的な権力ではないのです。それは、私たち日本人には馴染み深い、北朝鮮による拉致事件について考えれば明らかです。
たしかに北朝鮮という国家は、組織的に多くの日本人を誘拐し、朝鮮半島につれていったのです。2002年、拉致された蓮池薫さん夫妻や地村保さん夫妻、曽我ひとみさんが小泉首相とともに帰国した時の情景は、私だけでなく多くの日本人にとって今も脳裏に焼きついているものです。
しかし、この事件全体の究明をすることは日本国政府にはできないでしょう。その単純な理由は、それはいまも捕らえられていると考えられる横田めぐみさんたち被害者、さらに犯罪の主要な人物たちが日本国内にはいないからです。この事件の真相の解明には、明らかに北朝鮮政府の協力が必要ですが、それは北朝鮮を支配する現存の独裁国家においては、現実的には不可能です。
世界には主権国家が160以上存在しており、その一つ一つが他国の意思に従う義務がないという意味で独立しています。このような主権国家によって構成される国際社会はすなわち、それらを統括、支配する絶対者がいないという意味において、無政府状態にあるといえるのです。
それではいったい、このような意味で無政府状態にある国際社会には、秩序は存在していないのでしょうか。
いうまでもなく、秩序はたしかに存在しています。世界には、アメリカのアフガニスタン攻略やイラク占領、パレスチナ紛争やイスラム原理主義によるテロリズムなど多くの局地的、単発的な実力行使があります。しかし、ほとんどの期間、ほとんどの地域において、平和にうちに交易が行われ、人々は共存しているのです。
これらの主権国家間の紛争を仲裁するのは、独立の組織を持つ国際連合である場合もありますし、朝鮮半島の非核化を目指す6カ国協議のような国家間のテーブルトークもあります。あるいは近い将来には、世界的な広がりを持つ反戦運動のNPOが、国家間の交渉をとりもつことも十分にありえるでしょう。
私のように私有財産制を基礎とするリバタリアンは、人間の自由が重要な価値であると考えるだけではありません。無政府なまでに自由な社会でさえも、実際には十分に秩序だっており、絶対的な政治権力と共存するよりも、はるかに豊かにかつ平和のうちに暮らすことができると信じているのです。
そのようなことはあり得ないと頭から否定するに、考えてみてください。国際社会の現状は擬似的な無政府状態であるにもかかわらず、ほとんどの場合、国際紛争は平和のうちに解決されているのです。適切な警察機構のかわりとなる民間警備会社が多数存在するのであれば、個人が無政府状態のうちに生活するからといって、今よりも頻発する犯罪を恐れるようなことはないはずです。無秩序が支配すると考えるのは、あまりに短絡的にすぎるのです。