採録
所得の再分配は道徳的に許されるのか?
リバタリアンからの平等主義への第二の反論は、「結果の平等」それ自体を目標として所得の再配分をすることは、そもそも倫理的に間違っているというものです。これはカントの提唱した道徳律である、「他人を自らの目的の道具にしてはならない」という規範に始まる倫理観だともいえるでしょう。
結果の平等の実現のためには、実際にその生まれ持った才能や成し遂げた努力、あるい幸運の結果としてえられた私有財産を、持てるものから強制的に奪い、持たないものへと再配分する必要があります。
日本では、所得税に関してはながらく高度の累進課税が課せられていました。今は最高税率が50%に制限されていますが、戦後の長い間、国と地方を合わせて最高90%に及ぶ税率を課していたのですから驚きです。これでは、十分に所得の高い人の場合、さらに余分に働くことから得られる追加的な収入は、本来の金額の10%にすぎないということになってしまいます。
私自身も高校生のときまでは、高年収の人たちが高い税率に課せられるは当然だと考えていました。租税法などで使われる、「担税力」という考え方に依拠しての考えです。担税力とはつまり、「人間はしょせんは同じ程度の所得があれば十分であり、それ以上のものは必要不可欠とまではいえない、だから、十分以上の収入の人間からは、より高率で税を担うべきなのだ」という考えです。
なるほど、これは一見もっともらしく聞こえます。各人の収入が、旧約聖書のマナのように天から降ってくるものだという前提に立ったとします。そのうえで、人間がそれなりに文化的な生活をするのに必要な金額というものを常識的に考えて税金を取るのだとしましょう。それなら、たしかに持てるものから奪って、持たざるものに再分配することも許されるように思われます。
しかし、そもそも人の持ち物を奪うことを道徳的に肯定することなどできるのでしょうか。
リバタリアニズムの啓蒙書を何冊も書いている、アメリカの経済学者スティーブン・ランズバーグは、その著書『フェアプレイの経済学』のなかで、所得の再分配の道徳性について次のように書いています。
「本気で信じるには、所得の再分配はあまりにもおかしな話なのだ。
なぜここまで断言できるかというと、娘を持った経験からである。娘を公園で遊ばせていて、私はなるほどと思った。公園では親たちが自分の子どもにいろいろなことを言って聞かせている。だが、ほかの子がおもちゃをたくさん持っているからといって、それを取り上げて遊びなさいといっているのを聞いたことはない。一人の子どもがほかの子どもたちよりおもちゃをたくさん持っていたら、「政府」をつくって、それを取り上げることを投票で決めようなどと言った親もいない。
もちろん、親は子どもにたいして、譲りあいが大切なことを言って聞かせ、利己的な行動派恥ずかしいという感覚を持たせようとする。ほかの子が自分勝手なことをしたら、うちの子も腕ずくでというのは論外で、普通はなんらかの対応をするように教える。たとえば、おだてる、交渉をする、仲間はずれにするのもよい。だが、どう間違っても盗んではいけない、と。まして、あなたの盗みの肩を持つような道徳的権威をそなえた合法政府といったものは存在しない。いかなる憲法、いかなる議会、いかなる民主的な手段も、またことほかのいかなる制度といえども、そのような道徳的権威をそなえた政府をつくることはできない。なぜなら、そのようなものはこの世に存在しないからである。」
なるほど、たしかにその通りです。
公園で自分の子どもが持っていない遊び道具を他人の子どもがもっていて、それを欲しがった時、人は「あれは他人のものなのだから我慢しなさい」、あるいは「いつか買ってあげるから我慢しなさい」とはいっても、「あの子だけがもっているのは不公平だから、とりあげて遊びなさい」とはいわないでしょう。しかし、政府による所得の再配分とは、大人がみんなで寄り集まって「議会」をつくり、多数決をとり、強制的に誰かが持っているものを暴力を使ってとりあげるということなのです。これは道徳的に考えてみれば、到底フェアな行為とはいえないと思います。
人がものを所有している場合、そこには本人の才能や努力などの理由があります。もって生まれた美貌や天才的な技芸の能力によるかもしれません。あるいは純粋に努力や根性としか呼びようがないような克己精神による修練、訓練のおかげかもしれません。あるいは彼らの親がその身を削って獲得したものを与えてくれたかもしれません。安易に人の持ち物を取り上げる前に、そもそもそのような行為が正当化されるべきであるのかを疑うことが必要です。
実際、内閣府がおこなった「国民生活選好度調査」によれば、日本でも約7割の人たちが、「個人の選択や努力の違いによる所得の格差などは当然である」と答えています。また朝日新聞社が2005年から2006年にかけておこなった世論調査でも、「競争は活力を高める」、「挽回できない社会ではない」と考える人は6割にものぼっています。
私の考えでは、すでに今の日本では、ビジネスエリートやアカデミシャンの多くは自覚していると否とにかかわらず、リバタリアンな考えをある程度取り入れていると思います。それは所得の格差の存在を前提として、むしろ敗者の再チャレンジを促すべきであり、いたずらに政府の所得再分配を肯定しないという態度です。これはもちろん、成功したアスリートや勝ち組のビジネスマン、あるいは効率を重視するエコノミストに、より強い考えでしょう。
イチローや松井秀喜の年収は、たしかに私の生涯収入を10倍規模で上回っています。けれども、だからといって彼らからその努力、あるいは才能の対価としての収入を強制的に奪って、私に分配しろというのは、あらゆる意味で倫理的ではないと思うのです。
野茂英雄が、個人的な野球のクラブチームを大阪に持っていることを知っている人は多いでしょう。いうまでもなく、彼は野球が健全で重要な社会的、個人的な意義を持っていると考えているのだと思います。だからこそ野球をやりたい人のために、その個人的な資産の一部を使ってまでチームを運営しているに違いありません。
人がすばらしい価値だと思うものがあるのなら、それがなんであれ、自分のもっている私有財産を投じてそれを支援するべきです。「自分の価値を社会に押し付けるために、誰か他人のポケットからお金を取り出そうなどとゆめゆめ思うことなかれ」というのが健全な道徳というものではないでしょうか。
国家という権力システムの寄生者たち
リバタリアンな社会が所得格差を拡大するのかという問いに対する第三の反論は、完全にリバタリアンな社会では、常識とは異なり、かえって所得の平等が促進されるのだというものです。私自身は完全にリバタリアンな社会では、今よりも結果的な所得格差が開くのではないかと思っています。
とはいえ、かえって平等になるという主張もある程度は真理であるため、平等主義者が声高に主張するほどの格差は生まれないだろうと考えています。この「自由は平等を促進する」という指摘が正しいというのは、所得格差の大きな部分は、実は国家権力によるレバレッジ(てこ)の原理によるものだからです。
たとえば、ジャーナリストである池田信夫はその著書『電波利権』において、最も端的な問題提起をしています。そもそも電波帯域の利用は国家が独占的に許認可をするものであり、まさに本来は国民の共有財産であるにもかかわらず、現実には電波利権となって既存のテレビ・ラジオ局に割り当てられる、つまり特定人に無償で与えられているのです。このことを丹念に調査し、鋭く批判しているのです。
放送局が参入規制を受けた、典型的な保護産業であることはいまさらいうまでもありません。さらに、明らかに茶番なのは、デジタル放送などという放送規格を、国民レベルでみた経済合理性を完全に度外視してまで推し進めていることです。これは費用がかさむばかりで、インターネットに比べればまったく無意味な程度の双方向通信性しかもたないのです。電波の有効な利用を考えれば、長期的に放棄されるべき規格であることはあまりにも明らかです。
これは郵政省・総務省の命令なので、既得権益としての電波利権を失いたくない放送局は、これに従わざるをえません。やむをえずデジタル放送の設備を導入したのです。投資を回収するためには、同時にテレビ放送局の新規参入を妨害し、ネット上でのテレビ番組の配信には、著作権保護などを錦の御旗に難色を示すことにならざるを得ないということになります。
2004年以降、ライブドア対フジテレビ、楽天対TBSなどのM&Aが活発化し、マスコミも連日これをマネーゲームだとして大きく取り上げました。これらの事件では、敵対的な買収を仕掛けたのはIT企業側で、守りに入ったのは放送局でした。
放送局の現有資産が重要なのでしょうか。もちろん、そうではありません。各放送局に免許として割り当てられた電波帯域を使う権利が、巨大な価値を持っているのです。まともな経済感覚があればほとんど自明なことでしょう。
先進諸国の実例を挙げてみましょう。EUでは2000年に電波枠の競売が行われ、約14兆円が国家歳入となりましたし、イギリスの通信電波枠もまたおよそ4兆円で落札されています。日本の経済規模を考えれば落札額は10兆円はくだらないでしょう。その金額が現在の時点では、テレビ局やラジオ局、NTTドコモやKDDI、ボーダフォンといった既得権益を持つ会社に勤めている従業員、あるいはそれらの会社の株主の利益になっているのです。
実例として、テレビ局の職員の給与について考えてみましょう。ライブドアとの確執で話題をまいたフジテレビにしても、楽天との統合問題にゆれたTBSにしても、たいへんな高給です。2004年の時点でフジテレビ職員は平均年齢39.8歳で平均年収は1529万円、TBSではこれが42.3歳で1429万円なのです。諸手当や年齢などを考慮すれば、その実態では年収2千万におよぶはことはごく普通のことだといわれています。
しかし、番組制作の多くが下請けのプロダクションに任されているというのが現実です。これを考えれば、テレビ局という組織は、つまり国家によって許可された電波の枠を切り売りしているだけなのです。それによって、庶民には信じられないほどの給料が既得権益として支払われていることを理解してください。
いうまでもなく、リバタリアンな政策とは、電波帯域をすべて競売にかけて、だれであれより有効に利用できると考えるものがそれを落札して利用するというものです。既存方式の音声通信でもIP電話でも、あるいはデータ通信なり、放送なり、または放送用の番組の有料・無料の配信など、用途は限定されません。だれであれ、電波帯域を一番効率的使える人間が、それに対してもっとも大きな金額を払えるはずです。
視聴者がリアルタイムでいっせいに視聴できる放送というシステムがいいのか、あるいはそこで放送された番組を視聴者個人個人の要望に応じて配信するビデオ・オン・デマンドがいいのか、それともすべての番組が通信として切り売りされるような状態が、コンテンツ視聴者がもっとも望んでいるのか、これらの通信のベストミックスはいったいどのようなものなのでしょうか。それは実際に企業が経営の中で、試行錯誤をしてしか知りえないことです。
そもそも電波行政などと称して、技術センスも経済感覚もない中央官僚が電波帯域を割り当てるという仕組み自体が、現代のITの急速な進歩とそれに伴う企業化精神を圧殺しているのです。自由闊達にIT企業同士が競い合い、あらたなビジネスモデルを模索しつつ試行錯誤を経る。それにコンテンツ作成能力をもつ既存のテレビやラジオ放送局がコラボレートする形で、視聴者が望む最適な時間配分に近づけていくのが正しいはずです。
日本では、総務省による電波利権の配分が既存業者に偏りすぎているため、新規参入がほとんどみとめられていません。新規参入をより自由にすれば、香港のように1分1円、あるいはインドのように1分2円程度までは通信料金は低下するはずです。
現在の日本の通話料金の高止まりは、世界的にみれば例外的に保護されている業界の体質の現れであり、まったく異常なものなのです。テレビなどの「放送」はすべからくネットに移して、空いた電波帯域を使って、携帯電話業者を自由に参入させるべきです。
実際、現在も私はテレビをほとんど見ませんし、家に帰ったときの第一次的な娯楽、情報ソースはインターネットのポータルサイトです。最近の多くの調査をみると、20代、30代のサラリーマンの多くが、インターネットが第一の情報源で、テレビはつけっぱなし第二次的な情報源にしているという状態のようです。放送の自由化の最終段階では、現在のような同時受信的な放送、あるいは不特定多数へのプッシュ型の通信などは、ほとんど完全になくなってしまうのではないでしょうか。
これはちょうど、映画は映画館で見るよりも、好きなときにリビングのテレビで見ることのほうが圧倒的に多いということに似ています。電波の利用価値はおそらく、あまねく届くという場所的な制約を受けないことにあるのだと思います。
とするなら、テレビ放送のような高精細で情報量の大きな画一的なコンテンツは、むしろ完全にネット上で「放送」されるべきでしょう。通信量と速度に不可避的に制約の存在する電波は、すべからくコンテンツの個別配信を含む個人的な「通信」、あるいは携帯デバイスに特化したワンセグのような放送形態のみの利用が自然なことになるのではないでしょうか。