深尾憲二郎-7

[22: 無意識]
 


■たとえば、脳の研究者の人達もフロイトのことは知っていてね、なんとなく「無意識」っていうのはあるんじゃないかと思っている人がけっこういるんですね。

○いるみたいですね。僕には「無意識」っていう言葉が何を指して言っているのか分からない、というか、言葉そのものが意味不明なんですけど。

■それは知的に正直な態度だと思う。僕はね、脳の研究を先端的にやっている人の中にも、かなり知的に不正直な人が多いと思うんです。

○意識の上にのぼってこない、意識下、下意識みたいなところで、いろんなモダリティーの計算過程なり脳の活動なりがあることは当たり前だと思うんで、そういうのを無意識と言っているんだったら分かるんですけど、どうも話を伺っていると、脳の研究者の人でも、無意識っていうドメインがあって、その上に意識っていうものがあるように捉えている人がたまーにいるような気がすることがあります。

■うん、そういう人はいい加減なんですよね。ただ僕はこうやって精神科で臨床をやっているから、無意識というようなものはない、と言い切るには勇気がいるんですね。やっぱりフロイトの影響力があんなに大きかったのは、かなりもっともらしいところがあったんだと思うし。

○ええ、もっともらしいのはそうなんでしょうけど、フロイトの言っていることは、もっともらしいだけなんじゃないかなと。

■そうですね。もちろん科学じゃない。でも臨床的な有用性という意味ではやはり馬鹿にならないものなんです。フロイトの教えに従って治療したところ、効果があがったという例が膨大に報告されているんですから…まあ東洋医学なんかと同じようなものと言えるかもしれませんね。

[23: 機能局在論の弊害?]
 


○familiarityの話に戻しちゃいますが、精神病としてのドッペルゲンガー、二重身の話がありますね。あれって自分とそっくりじゃなくても、そっくりだと思っちゃうんでしょ。ということはやっぱり、「そっくりだ」と思う部分がどこかに機能単位としてあるのかなあ、と思うんですが。それはどうなんでしょう。

■カプグラやドッペルゲンガーの研究では、そういう物言いが多いんですよね。だけど、familiarityなんていう言葉を使って意味があるのかな、と思うわけです。例えば、小野先生の研究なんかすごく立派だと思うけども、知ってるか知ってないかということ、好きか嫌いかということって主観的なことですよね。それをニューロンで示すことそのものは納得できるんだけど、それとね、我々が主観的にね、好きか嫌いか、知っている知っていないということの間には、まだギャップがあると思うんですよ。あれで納得してしまうのはやっぱりちょっとね、安易じゃないかという気がするんですよ。もちろん、かなり重大なことを出してきているとは認めるんですよ。だけど、あの研究によってね、だから扁桃核は好き嫌いの中枢だといっていいのか。どうしてもそこが納得できない。

○と、仰いますのは…。

■だって、そうでしょ。ちょっと離れて見てみるとね、サルの研究をやっている研究者や、その発表を聞いている我々が、サルにものすごく思い入れしているんですよね。そういう視点で、サルは好きだからこうしたんだ、嫌いだからこうしたんだと言っているだけなんですよ。それは例の、サルが手話を覚えた場合にそれを言語とみなし得るかどうかということと同じ問題だと思うんだけど。
 僕はね、養老孟司がこう言っているのを聞いて、最初はすごい抵抗があったんですよ。というのはね、ヒューベルとウィーゼルの実験、ノーベル賞をもらいましたけど、あれはね、猫の脳の視覚野の中にああいうコラムがあるんじゃなくて、実験している人間の脳の中にあるんだと、彼は書いているわけです。最初はね、何を変なこと言ってるんだと思ってたんだけど、よく考えたらなかなか渋いんですよね。ヒューベルとウィーゼルの実験はあまり良い例じゃないと思うんだけど、小野先生の実験あたりになるとね、それはかなり疑ってみる必要があるんじゃないかな、と。

○見ようと思っているから見えているんだということですか。

■まあ、極端に言えばね。全面的に認めるには、ちょっと留保がいる、というくらいの意味です。

○なるほどね。

■やっぱり機能局在論の悪いところで、いろんな精神機能について、パッパッと実体を繋いで機械を作ってしまうような感じで話すのは、あまりにいい加減じゃないかな、と思うんですね。とにかくね、主観的な言葉を安易に使うのはどうもね…。
 たとえば、記憶って言葉がありますけどね、コンピュータがあまりに発達して機械に記憶って言葉を使うのは当たり前になってしまった。記憶容量とかね。記憶っていうのは量を量れるもんだと。数えられるもんだと。検索できるようなそんなもんだと。だけど人間の記憶と機械の記憶にはいろいろな違いがある。そのなかでもすごく重大なのは、エピソード記憶と、習慣として学習された記憶は質が違う、ということですね。そんなことは心理学者がワーワー言い出すずっと前にね、ベルグソンなんかが言っていたわけです。
 で、ベルグソンは、習慣性の記憶は大したものではなく、エピソードの記憶こそが精神の実体なんだと言っていたわけです。精神というのは記憶だと。「純粋記憶」という変な言葉を使っているけどね。
 これは空論みたいに聞こえるけど、ペンフィールドがね、側頭葉を電気でピッと刺激したら患者が何か思いだしたと。そしたら患者が「もう一回やって」と言ったので、もう一回ピッと刺激したら、「あ、そうか、あれは○○だったんだ!」と言ったと。そういうことにものすごく衝撃を受けて、ペンフィールドは「ここには精神がある!」とか言い出したわけですよね。これは、今の機械論的な研究者が聞くとね、側頭葉に記憶に携わる機能があるということで、それを呼び出したんだ、っていうことで終わりでしょ。しかしペンフィールドの受けた衝撃というのはたぶん、そんなものじゃなかったんですよ。つまり、「生の記憶」が出てくるということです。意識の中に、生のエピソード、あの時あった、あのことそのものが出てくる、甦ってくるということそのものが、人間の精神っていうか生そのものだと感じられたんじゃないかと思うんです。それは、彼自身がそういうある種文学的な感性を持っていたからだとも言えるんですが、僕は敢えてそこに拘っている。実はそこに拘ると科学じゃなくなるヤバイところなのかもしれませんが。ペンフィールドは実際小説も書いていたような文学的な人で、最後にはキリスト教の信仰に走って二元論者になってしまったわけだしね。

○なるほどね…。記憶というのは不思議ですね。

■だいたい大脳皮質の機能なんて、一次感覚野と一次運動野を除けば、ほとんどすべての領域が何らかの意味で記憶に関わっていると言われています。
 たとえば最近のワーキング・メモリなんかに関しては「未来の記憶」なんていう言い回しをする人もいてね。まあ、それはちょっとしゃれた言い回しでしかないんだけど。今、使われようとしている記憶だというわけです。脳の中に溜まっている情報を記憶と言ってしまうのならば、全部そうなってしまうわけでね。
 僕が言いたいのは、人間の精神にとって重要なのはむしろ主観的に思い出せるもの、すなわち自分にとって実際にあったことであると。懐かしさ、つまりfamiliarityを感じるのはそういう記憶に対してだけですからね。そして人間が自分で責任をとろうとするのも、そういう記憶に対してだけでしょう。そう思いませんか?

[24: 多重人格は実在するか?]
 


○記憶の障害というと、最近だと、いわゆる多重人格があるじゃないですか。多重人格については、先生はどんなふうに捉えていらっしゃるんですか。多重人格という症例は実際に存在するんでしょうか。普通に定義すると解離性障害の一つで、記憶障害だと考えられているようですが。

■多重人格には、ややこしい背景があるんです。精神科の人に聞いたら、みんなこう答えたと思うけど、日本ではずっと「多重人格なんていうものはそもそもない」と考えられてきたんですね。ところが、最近アメリカ人たちが「ある」とやかましく言うもんで、日本の精神科医の中にも「ある」という立場をとる人が増えてきたんです。
 ばかばかしい話だけど、幼女連続誘拐殺人事件の被告の精神鑑定ね、1回目は「責任能力あり」だったのに、数年後の2回目の鑑定で多重人格と診断がつけられた。まさにその1回目と2回目の間の数年のうちに、日本の精神医学界で多重人格の支持者が急激に増えたんです。

○…。

■それもね、もとはと言えばアメリカの精神医学界の特殊事情が絡んでいるんですよ。この十数年間の間に、アメリカでは長年隆盛を誇ってきた精神分析がいよいよ勢いを失ってきた。それで、フロイトに基づいてどうのこうのというこれまでの教条主義がだんだん通用しなくなってきて、そこで実は、フロイト以前に戻ってきてるんです。フロイトは最初の頃は精神障害の原因として幼少期のトラウマ(心的外傷)を大きく位置づけていたんだけど、後で現実のトラウマより心的な発達段階における逸脱の方が重要だと言うようになっていったんですね。つまり患者に催眠術をかけて幼少期のトラウマを捜し当てるような方法に対しては否定的になっていった。もしトラウマを思い出すことがあったとしても、それは必ずしも現実にあったことではないというのです。

○ほう。

■最近、PTSDっていうのが話題になっていますよね。PTSDというのは「心的外傷後ストレス障害」のことで、現実の具体的なトラウマがもとで精神障害を起こすものです。これが話題になったのは、日本では神戸の大震災があったからで、アメリカではベトナム戦争や湾岸戦争があったからだけど、実はアメリカで精神分析の権威が失墜してきたということと直接関係があるんです。多重人格という話もトラウマとの関係で出てきたんです。多重人格は存在するという立場の人たちはみんな、幼少期のトラウマをその原因として挙げていますからね。
 で、多重人格というのは本当にあるのかというと、深い精神の障害としてはないけども、浅いところ、現象的な現れとしてはあるという言い方になるのかな。

○え、どういう意味ですか?

■自分ではない他の人間というのは、ある意味で自分の中で生きているわけですよね。だから、他の人として自分が生きるということはね、それ自体はそんなに変なことじゃないんですよ。普通の人の精神でもあるでしょ。

○そうすると、自己と環境との分離の障害ということですか? それとも自己の境界が曖昧になっているとか?

■これは基本的なことだけど、自我障害と多重人格というのは、僕はほとんど関係ないと思っているんです。さっき僕が言った深い精神の障害というのは自我障害のことです。多重人格というのは、もっと浅いものだと思っているんです。浅いというのはつまり空想、ファンタジーの類だろうということです。

○妄想ということですか?

■いや、精神科では妄想というとかなり強い意味だからね。つまりねファンタジーというのは、正常な人、正気な人でも抱くようなものですよ。

○ああ、じゃあ多重人格も、そういうものだと。

■そう。だから、ファンタジーに傾きやすいパーソナリティというのが、アメリカの文化の中に多いんじゃないですか。だから、そういう現象が起こってくる。文化に結び付いたものだと思います。文化結合症候群というんですが。
 比較文化精神医学というのをやっている人達が、ニューギニアの方のワニ憑きだとか、いろんな地域に特有な病気を見つけているじゃないですか。ああいうものと比べてもいいと思う。

○ほう。

■だからね、脳生理学の澤口俊之先生(北大)なんかが、前頭葉のコラムが多重だから、多重人格もあり得るとか言っているのを読むと、はっきり言って呆れちゃうんですよね。自我の構造が前頭葉のコラムに関係がある、というのは、やや疑問だけど仮説としてならそこまではまあいいだろうと。でも、コラムはたくさんあるから多重人格もあっていいとかいうのは滅茶苦茶でしょう。

○そこまで言っちゃうとなんでもあり、って気がしますね。

[25: 結合問題はあるのかないのか]
 


■しかし、人格って考え出すと本当に難しいと思う。人格って何でしょうね。

○何なんでしょう。本の中ではみんな勝手に定義しているようですが。

■ちょっと考えるとね、確かに脳の機能かもしれませんが…。手足は人格に関係ないとみんな思っているからね。まあ実際に手を折ったりしたら多少は人格が変わるかもしれませんが、それでも手が折れたことが直接人格を変えたと思う人はいない。そういう意味では人格は脳の機能なんでしょう。そして、みんな少なくとも人格とは全体的なものだと思っている。全体的だっていうことは、一つだっていうことと同じなんですよ。
 最近の意識研究でもね、意識は一つだと。それはなぜか。Binding問題(結合問題)というのが議論されてますね。意識が一つなのはなぜかという問いに対する一番単純な答えはね、脳が一つだから、というものなんですよ。100年前にウイリアム・ジェームズが意識と脳の関係について、そう言ってたと思うんですけどね。
 つまり脳というのは生き物の器官で、その中で不可逆過程が起こっていると。で、それは一回きりのことだから、我々の意識は一方向に流れるんだと。
 それは分かりやすいんだけどね、そうすると多重人格というのは全く理解できなくなってしまう。だから、一つの人間に一つの人格しかないのは脳が一つだから。だから一つの行動パターンしかなくて、だから一つの人格しかない、というんだったら、多重人格というのは絶対あり得ないことになってしまう。

○うーん。僕にはなんで一つに統合されているのかということが、脳が一つだからだといったことで説明されるとは到底思えないんですけど。

■そう?

○思えますか?

■デカルトは松果体が一つだから意識は一つだと言ったんですよね。ペンフィールドは中心脳。脳幹が一つだからと考えたわけでしょ。でも考えてみればね、脳は一つだから、ってことだけでいいような気もするんですよ。

○うーん…。

■だって、みんな「統合」されているっていうけれど、統合ってなんのことなんですか。

○じゃあ先生は、統合とかそんなことを考えること自体がおかしいんだという立場ですか。

■そういう立場もあり得ると思うんですよ。
 「人格の統合」ということを厳密に考えるには、まず自分の人格というレベルと他人の人格というレベルを分けなくてはいけないでしょうね。自我障害は自分の人格が崩壊する現象だけれど、多重人格は他人の人格のレベルだけで起きる現象だと思うわけです。他人の人格のレベルというのは、あの人はこう考えるだろうとか、自分が今まで付き合ってきた人達のことをなんかモデルとして頭の中に持っていて…。

[26: 自我障害]
 


○他者の心の推定能力?

■そうです。それは今あの人はこう考えているから、私がこうするとあの人はこう考えるんじゃないかというシミュレーション能力でもあるわけです。ある特定の他人についての、そういうさまざまな自分との関係性が、一つのまとまりとしての他人の人格を作っているんじゃないですか。

○外界のシミュレーション能力ですか。最近、人間を進化的観点から理解しようという試みが行われてますけど、サルの群れとかで社会行動をするために心が発達したんじゃないかという話のことですか。

■そうそう。僕はあれが好きなんです。

○最近、人間の言語っていうものの起源も音声言語ではなくって、サルの身振り言語とか、他者の心を外見から判断するところから来ているんじゃないかと言っているようですね。本当かなあと思うんですけど。

■ニコラス・ハンフリーの『内なる目』という本がありますけど、ああいう考え方ですね。
 どちらにしてもそれはすごく高等なレベルで、正気の人が、正気のままやっているレベルですね。あのね、僕が思うにはね、多重人格を含むヒステリー的な病気というのはね、自分の行動に責任をとるっていうところが外れてしまって、無責任になるんですよ。そうすると、自分がお姫様だったらとかいうファンタジーが勝手に動き出すと。こういう自分の願望とか想像どおりになるっていうのはすごく表層的なもので、深いところの障害ではないと思う。

○ふーむ。

■それに対して精神分裂病などで起こってくる自我障害はね、「自分の体が他人に動かされている」という感じはね、これはもうファンタジーじゃないですよ。これはちょっと、実際に患者とつきあった人じゃないと分かりにくい話なんだけど。本人がとにかく、「誰かに見られている」とか言って、一時も安心できないんですよ。どこかから見張られていると。

○逆に言えば普通の人はそんなふうに感じないわけだから、そういう、自分の中に世界を構築しても大丈夫なようになっているわけですよね。あるいは、自分の中の外界シミュレーションを俯瞰できるようなシステムがあるんでしょうか? で、それが壊れると分裂病になるんでしょうか。自分が頭の中で作った仮想世界と、実際の世界が混乱してしまうとか?

■うーん…もちろん精神病の妄想には願望充足的な内容であるとか、そういうファンタジーと共通する面もあると思いますが、本当の妄想というのはすごく切迫したもので、ファンタジーや空想のように自分の好きなように、自由に作ってゆけるようなものではないんです。それは他者の人格が直接自分を左右するというような状態で、本人はまったく受け身になってしまうんです。だいたい仮想世界とおっしゃったけど、人格を持った他者というのは人間にとって単なる「環境」ではないでしょう?

○でも、分裂病というのは、他者をシミュレーションするっていう能力のどこかが壊れたことによる、というお考えではないんですか?

■いや、そうなんだけどね…どう言えばいいのかな。やっぱり分裂病は「自己の病」であって「他者の病」ではないんですよ。多重人格では自己の方の都合で他者に入って来てもらって代わってもらうのに対して、分裂病では自己がうまく成り立たないために、必然的に他者が入って来るんだと考えるわけです。
 もう一回繰り返すと、今の話はね、同じように「人格」といっても、われわれが持っている唯一の人格、生の人格、行動パターンとしての人格というものと、多重人格のように記憶の中から次から次へと現れて来るものは全然レベルが違うんだということ。反対に自我障害というのは、生の人格の方、すなわち人間精神にとって基本的な何かが壊れてしまっている、と考えているんです。その壊れているものとは何なのか。それが最も重要な問題ですよ。

○ふーむ。

■薬理学が好きな人たちはね、妄想についても緊急反応とかで説明するんですよね。周りから見張られている、っていうのは、草食動物が肉食動物を絶えず警戒するような原始的な行動が出てきていると。

○嘘っぽいですね(笑)。

■僕もそういう説はどうしても信じられないんです。ドーパミンが増えているのは事実だとしても…。
だって分裂病で幻聴が聞こえるとかいう現象は、人間社会的なものだし、しかも言葉を介しているわけですよね。他者の心を理解しようとするときも、たいてい他者の言葉というものをカギにしているんだと思うんですよ。だからそういうところに関わっているのは確かなんだけど…。これはまだちょっとうまく説明できないですね。僕が「講座・生命’98」に書いた論文では、哲学的他者論に対する批判に力点を置いていたわけですけど。
 とにかく、多重人格というのは壊れていないと言いたいわけ。正気の人が正気のままできることを、「無責任に」やっているだけだと思うわけです。自分の本当の人格はちゃんと保たれているんですよ、解離性、ヒステリー性の疾患というのは。

[27: てんかんと精神分裂病]
 


○てんかんの人が精神分裂病様になるというのはなぜですか? てんかんがトリガーになって、普通の人が病気にならないようにしているものが壊れる、ということですか。それともそうじゃなくて、もっと密接に関わっているんでしょうか。