ジェンダーフリー ジェンダー

最近、男女共同参画社会実現のための大切な視点のひとつとして、
「ジェンダーフリー」という言葉が使われるようになってきました。

でも、この「ジェンダーフリー」という言葉が、
「女性を、今の男性並みにする」という意味に使われていたり、
「ジェンダー」という言葉が、
女性と男性の「違い」として肯定的に使われていたりして、
とても残念に思うこともあります。

「ジェンダー」という言葉は、
「社会的・文化的な性差」と訳されます。
簡単な言葉で言えば、
社会的につくられた「女らしさ」「男らしさ」ということでしょう。

もともと、女性と男性とでは、生物学的な性差があります。
ただ、わたしたちは、その生物学的な性差ではないものまで、
たとえば、性格や特性、役割などまでも、
女と男という2つのグループにふり分けてしまっています。

そういうものは、性別によって決まるわけではなくて、
一人ひとり、個人差があるものです。
ですから、女と男という2つのグループに分けて、
そのグループごとに性格を考えたり、役割を決めたりすることに、
意味はないと思います。

でも、そのようにして、
「女とは、または男とはこうあるべき」というような思い込みが
つくり出されていきました。
それが、「ジェンダー」です。

つまり「ジェンダー」とは、生まれつきの男女差ではなくて、
生まれた後、
まわりから教えられたり自分で見て覚えたりして、
しだいに身につけてきた「らしさ」です。

これまで生まれつきだと考えられていたものも実は、その多くが
「ジェンダー」で説明できるようです。

この「ジェンダー」は、
男女差別を差別だと思わせないからくりだとも言われています。

1.あなたのまわりで
今どき「女らしさ」「男らしさ」なんて
わたしはこだわってないと思っている人も
いるかもしれません。
でも、実は自分が思っているよりもずっと、
わたしたちは「ジェンダー」に影響を受けています。

そして、自分で意識している、いないにかかわらず、
わたしたちは、相手の性別によって、
接し方を変えたり、基準を変えたりしているようです。

たとえばこんなことが…

 子どもがおなかの中にいるとき、
 元気に動いていれば
 「元気、いいね。きっと男の子よ」
 と言われました。
 また、おとなしくしていると、
 「おとなしいね。女の子なのかな」
 と言われました。

 おなかの中の子が男の子だとわかってから、
 母とベビー布団を買いに行きました。
 わたしはピンクの布団の柄が気に入ったので、
 それがいいと言ったら、
 「男なんだから青なんじゃない?」と言われました。
 「せめて黄色にしたら」とも言われました。

 息子が座れるようになった頃のある日、
 目の前に、赤いボールと青い自動車、
 白いぬいぐるみを置いて、
 「どれがいい?」と息子に聞くと、
 彼は赤いボールを選びました。すると
 「さすがに男の子ね。将来は野球選手かな?」
 と言われました。

 娘が生まれたときにも、同じことをしてみました。
 娘も同じように、赤いボールを選びました。
 すると、「え?女の子なのに、
 ぬいぐるみよりボールが好きなの?」と言われ、
 隣にいた人からは、
 「きっと女の子だから、赤が好きなんじゃない?」
 と言われました。

 子どもたちが転校してきた小学校には、
 標準服がありました。
 女の子はスカートです。
 それまでほとんどスカートをはいていなかった娘は、
 スカートでは鉄棒やサッカーなど、
 運動がしにくいことに気がつきました。
 そして、しだいに休み時間には、運動場に出るよりも、
 教室でおしゃべりをして過ごすようになったようです。

 学校で、混合名簿を採用するところも
 ずいぶん増えてきました。
 子どもたちの小学校では、
 途中から混合名簿になりました。
 でも中学校で、また元に戻ってしまいました。
 子どもたちはそうなってはじめて、
 男女で分けられ、
 男子が前ということに違和感を感じたそうです。

 高校生になった息子が、
 携帯電話を買いたいと言いました。
 ホームページで機種を確かめ、
 彼が選んだ色はパールピンクでした。
 申し込みに行ったとき、
 お店の人はほんとうにこれでいいのか、
 何度も確かめました。

このような経験は、多かれ少なかれ、わたしたちは全員がしています。
家庭の中で、学校で、地域で、テレビや雑誌などを通して、
わたしたちはいろいろなことを教えられてきています。

そして、それぞれの性にふさわしい性格や行動などが
あるかのように思い込み、
自分自身もそれに沿うように努力をしますし、
まわりの人にもそれを期待するのです。
そのようにしてジェンダーは、これまで伝え続けられてきました。

2.ジェンダーの影響
最近は、ずいぶん「女だから」「男だから」ということに
こだわらない人も増えてきました。
職場で仕事をする女性も増え、
家事や育児をする男性も増えてきています。

それでも、家事労働の時間は圧倒的に女性が多く、
男性は「手伝う」という感覚でしかない人がほとんどのようです。
また、家族の気持ちを聞いたり考えたりするのは、
圧倒的に女性が、その役割を担っています。

あなたは、男の子が泣いていたり、
ままごと道具や人形をほしがっているのを見ると、
何となく情けなくなったり、違和感を感じたりしませんか?

また、女の子が自分の考えを、しっかりとした口調で話していたり、
家事が苦手だったりすると、
何となくかわいげがないと思ったり、心配になったりはしませんか?

そのようなときわたしたちは、自分の考え方や価値観で
「いや、そのように考えてはいけない」と修正したりもしますが、
一番最初の、ちょっとした違和感を感じとってみると、
案外いろいろな場面で、
ジェンダーの影響を強く受けているのがわかります。

それは、わたしたちがまだ遅れているとか、
間違っているというより、
それだけこの社会の中に、ジェンダーが
当たり前のように存在しているということなのでしょう。

わたしたち女性は、
「やさしい」「受け身」「従順」などの女性イメージを期待され、
「自分の気持ちは置いといて、まわりの人の要求や気持ちを推測し、
それを優先していく」ことを求められています。

あなたやわたしや、まわりの女性たちが、
そのイメージや役割とは違う個性や能力があっても、
それは「女らしくない」とされるため出しにくく、
また、期待されているものが苦手だとしたら、
「女のくせに」と責められるために、つらい思いをするのです。

そして、「女らしく」しようと努力することで、
自分の気持ちや要求はとりあえず横に置きますが、
それでその気持ちや要求が消えてなくなるわけではありません。
しかもその自分の率直な気持ちを表現することは、
「女らしさ」の理想像とはかけ離れていますので、
なんとなくいけないことのような気になり、
なかなか率直に表すことはできません。

そしてその結果、
わたしたちの中でさまざまな葛藤が起こります。

そして、わたしたちは、
率直でない方法で自分の気持ちを表してしまったり、
自分の可能性を狭めたり、縛ってしまったりします。
そしてそのうち、自分の正直な気持ちは心の奥の方にしまい込んで、
自分自身でもほんとうの気持ちを
つかめなくなってしまうこともあるのです。

3.維持されていくしくみ
女性と男性に対してわたしたちが共通に持っている思い込みを、
「ジェンダー・ステレオタイプ」と呼びます。
そのステレオタイプの影響を受けたわたしたちは、
無自覚なままに、またそれを維持していっているようです。

そのとき、わたしたちの心の中では、いろいろなからくりが働いています。

たとえば、あるグループの人たちの特徴を把握するとき、
たまたま自分が見聞きしたことを、グループ全体に当てはまるかのように
思い込んでしまうことがあります。
それによって、自分のまわりのあるひとりの、または何人かの
女性(男性)の特徴を、
「女性」(「男性」)というグループそのものの特徴であるかのように
錯覚してしまうのです。

特に、数が少ないものは視覚的に目立ちます。
ですから、男性(女性)が多い職場にいる女性(男性)の特徴を、
「女性」(「男性」)というグループ全体の特徴であるかのように
錯覚してしまうこともあります。

また、わたしたちは、たとえ「らしくない」事実を見聞きしたとしても、
それを「例外」だとしてしまい、
そのことで「らしさ」そのものの書き換えをするようなことは、
めったにないように思います。

たとえ「女(男)らしくない」と感じるような女性(男性)が
まわりにいたとしても、「あの人は○○(職業だったり家族構成だったり、
ときには「変わったヤツ」というものも!?)だから」という、
性別とは違う理由をつけて、その人を「女性(男性)」の例外のように
受け取ります。
そして「女(男)らしさ」そのものを問い直すことなど、めったにしないのです。

一方、自分のことを考えるときには、
たとえ今の自分の立場が弱かったり、差別されていたとしても、
自分の価値は下げたくないので、
そんなことはないと思いたい気持ちが働くようです。
また、「わたしはまだまし」だとか、
「わたしはうまくやれている」と思いたい気持ちも働きます。
でもその結果、わたしたちは、ジェンダーの悪影響を見ないように
してしまっているのではないでしょうか。

そのような状態で、他の差別されている女性を見たときには、
それを、ジェンダーによる女性差別だと思えないことがあります。
そして差別されているのは、その女性に何か原因があるのだと
思いたくなるのです。
そうでないと、自分にもそのような差別がふりかかることを
認めることになってしまいます。
「わたしはあの人とは違うからだいじょうぶ」と思いたいために、
その女性自身に、原因を求めてしまうのです。

それが、女性差別という点で、
本来同じ立場として共感し合えるはずの女性が、
他の女性をおとしめてしまう理由のひとつなのだと思います。
そしてそのことで、女性が不利益を受ける社会環境はなかなか変わらず、
ジェンダー・ステレオタイプも維持されてしまうのです。

4.性差の生物学的な証拠?
「男女差は生まれつきの生物学的なものだ」という主張をよく聞きます。
でも、はたしてそう断言できるものなのでしょうか。

「左右の脳の分業の仕方と脳梁の太さが女性と男性とで違っていて、
これが男女の言語能力の差をもたらしている」
つまり、「女性は言語活動で左右の脳を使い、脳梁が太いから
言語能力にすぐれている」という説について

 実は、半球分化が進んでいる方が能力が発揮されやすいという説もあり、
 左右半球の機能差と能力とを結びつけるような確証は、
 まだ得られていないそうです。

 また、ある種の能力や傾向と脳の構造や機能との間に
 たとえ相関があったとしても、
 どちらが原因で結果なのかはわからないとは思いませんか。

 わたしたちが生まれたときには、脳は15%しか成育していないと
 言われています。
 残りの85%は、生まれたあとで起こるさまざまな刺激によって
 成長していくのです。

 たとえ今、女性の方の言語能力がすぐれているという
 実験や観察の結果があるとしても、
 「女性だからそのように生まれついている」というわけでは
 ないのかもしれません。

 子育てを任され、家族の世話をし、人間関係に配慮すべきだとされる
 女性の方が、現状として、結果的に言葉をより多く使うことになり、
 その経験の結果が、脳の機能差を生み出しているとも
 考えられるのではないでしょうか。

「女性は地図が読めない」とか「女性は空間図形が苦手」などの説について

 これも、「女性だからそう生まれついているのか?」という疑問がわきます。

 そもそも、地図を読むためや数学の空間図形を考えるのに必要な
 空間的な思考は、まわりの環境を探検し、からだの能力を発達させることと
 密接に結びついていると言われています。
 つまり、幼い頃の肉体的な自由が、空間的な思考のための技能を
 発達させるのだそうです。

 このような技能は、およそ8歳くらいまでは、女の子と男の子のあいだで
 差はないと言われています。
 そしてその後、子どもたちの技能に、少しずつ違いが現れ始め、
 思春期の頃に、その違いは最もはっきりするそうです。

 8歳というと、そろそろ女の子たちに対して、「おてんばではいけない」
 「女の子らしくしなさい」と言われはじめる頃ですよね。

 そして思春期の頃の女の子たちの行動の自由は、
 男の子たちに比べて、かなり厳しく制限されています。

 また、ほとんどの女の子たちと同じように、
 のびのびとからだを動かすことをあまりよしとされなかった男の子たちにも、
 この技能に関して、女の子たちと同じような発達の傾向が見られる
 という事実があるそうです。

 ですからこれらの能力は、生まれつきではなく、
 その後の経験によるものであると言えるのだと思います。

現在、確かに男女による能力の差や脳の違いなどが測定されています。

でもそれは、生まれつきのからだの違いが原因だとばかりは
言えないのではないでしょうか。

からだの違いと能力差は、どちらが原因で結果なのかはわかりません。
また、たとえからだの違いが原因だとしても、
それが生まれつきであるとは限りません。
育てられ方によるものなのかもしれないのです。

今、観察されている性差は、乳幼児期からの経験や学習によって
もたらされた社会的な性差(ジェンダー差)であり、
今後、男女の経験が似たようなものになるにつれて
その差は縮まっていくのではないかと、わたしたちは考えています。

参考文献:『ジェンダーの心理学――「男女の思い込み」を科学する』
/青野篤子 森永康子 土肥伊都子/ミネルヴァ書房

『ほんとうの自分を求めて ―自尊心と愛の革命―』
/グロリア・スタイネム 道下匡子 訳/中央公論社

5.「わたしらしさ」のために
今、ジェンダー・ステレオタイプには、少しずつ変化が起きてきています。
ファッションにしても、スポーツの記録にしても、仕事や役割の部分でも、
少しずつ男女差が縮まってきています。

それでも、ジェンダーにそってしまう意識から解放されるのは、
結構難しいことです。

何かしたいことがあるとき、「でも、やっぱり女だから無理だろう」、
「男がこんなことをして、変に思われないだろうか」などと
ためらうことはないでしょうか。

誰かが何かを成し遂げたり、何かに失敗したとき、
「やっぱり女(男)はこんなことが得意なんだ」、
「やっぱり男(女)はだめだ」と、
その原因をその人が「女であること」や「男であること」のせいだと
してしまわないでしょうか。

わたしたちは、自分でも気づかないうちに
「女であること」や「男であること」に縛られているようです。

ですから、自分がジェンダー・ステレオタイプを持っていることを自覚し、
そのステレオタイプが、自分やまわりの人に対しての見方を
歪めてしまうことを知っておくことは大切なことだと思います。

また、自分や誰かがステレオタイプとは違うとき、
それを「例外」とはせず、今までの価値観の方を疑ってみる、
多くの人と語り合い、自分とは違う価値観に触れてみる、
「何か変」だと感じたら、その違和感を大事にする、など、
わたしたちにできることはたくさんあります。

「女だから」「男だから」ではなく、
「わたし」はどうしたいんだろう…と自分に問いかけ、
「わたしらしさ」を大切にする練習を始めてみませんか。

グループのメンバーのひとりが変わると、グループ内のバランスは
変化します。
そしてひとつのグループが変わると、社会全体のバランスが
変化します。

ほんの少しの変化でさえ、大きな違いをつくり出すこともできるのです。

わたしたちひとりひとりの変化は、
そのための第一歩になるのだと思います。

もちろん、個人が変わるだけではなく、社会制度を変えていくことも
必要です。

この社会の不条理なしくみを変えるために、
あなたの中の思いをぜひ言葉にし、行動に移していってほしいと
わたしたちは願っています。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~with3/gender/gender.htm